安倍 晋三 家 系図。 安倍晋三は家系図や先祖一族・兄弟もすごいのに無能!?岸家や皇族との関係|KININARU JORNAL

安倍晋三の家系図 先祖一族・兄弟が凄い!桜を見る会は公選法違反?

安倍 晋三 家 系図

実家の安倍家は 山口県長門市(旧・日置村)にあり、江戸時代には酒や醤油の醸造を営んだ大庄屋として知られていました。 そして、祖父の 安倍寛氏が、日置村村長、山口県議会議員などを経て、衆議院議員を務めたことから、安倍家は政治一族となります。 さらに安倍家のルーツをさかのぼると、平安時代後期に活躍した奥州(岩手県)の 安倍宗任(あべのむねとう)にまで行き着くのだとか。 ちなみに安倍総理は、生まれも育ちも東京であり、小学校から大学まで一貫して「成蹊」を卒業しています。 1924年4月29日に東京で生まれますが、生後80日で両親が離婚したため、実母とは生き別れとなっています。 幼少期は地元の山口県で過ごし、高校は岡山の 第六高等学校へ進学。 この頃から、 おれも東大に進んで新聞記者から政治家になり、親父(安倍寛氏)の跡を継ぐ と周囲に話していたそうです。 大学は公言通り、 東京帝国大学へ進学。 海軍を経て東京大学を卒業した後は、これまた公言通り、毎日新聞の記者として活躍しました。 父・晋太郎さんは、1951年5月に、 岸信介氏の長女と結婚しました。 東条内閣の商工大臣だった岸氏は、終戦直後にA級戦犯容疑者として逮捕され、不起訴となった当時も公職追放中の身でした。 やがて政界に返り咲いた岸信介氏が副総理・外相に就任すると、かねて政界入りのチャンスをうかがっていた晋太郎さんは毎日新聞社を退職。 岸氏の外相秘書官に転じ、岸氏が首相の座をつかむと、首相秘書官に就任しました。 やがて訪れた衆院選に、晋太郎さんは地元・山口一区からの出馬を決意します。 しかし、地元とはいえ政治家の実父は大学時代に亡くなっており、すでに地盤がなくなっている状態。 岸首相は反対しますが、晋太郎さんは、 たとえ無所属でも出馬する。 総裁(岸)に迷惑がかかるなら、(夫人と)離婚してでも出馬する と譲らなかったそうです。 結局、「岸総理の娘」である夫人の人気もあり、晋太郎さんは初出馬で初当選。 これで、六高時代の公言(東大・新聞記者・政治家)はすべて果たしたことになりました。 政治家となった後は、岸派とそれを継承した福田派に所属し、田中派との党内抗争「角福戦争」を争いました。 竹下内閣では幹事長を務め、「ポスト竹下」の最有力候補と目されましたが、総理の座を目前に病に襲われます。 当時秘書の晋三さん(安倍総理)に、すい臓がんであることを告知されると、 そうか、やっぱりな… と、淡々と自分の運命を受け入れました。 1991年5月に逝去。 1993年の衆院選で、安倍総理は父の地盤と遺志を受け継いで出馬し、初当選を果たしています。 1928年6月11日生まれなので、今年(2020年)で92歳になります。 前述のとおり、母・洋子さんは岸信介元首相の長女。 東京生まれの洋子さんは、1945年に 白百合高等女学校を卒業した後、岸家の実家がある 山口県田布施町へ疎開し、山口銀行の田布施支店に勤務しています。 かねて、 娘は新聞記者に嫁にやる と公言する岸元首相の言葉どおり、当時新聞記者だった晋太郎さんと見合いをして結婚。 三人の子宝に恵まれました。 その後は、夫と子供の選挙にかかわり続けた母・洋子さん。 安倍総理が駆け出しのころは、 あなた、早口過ぎて、お年寄りの方には聞き取れないわよ。 それにあんまりキョロキョロしないように と、注意したこともありました。 ちなみに、母方の祖父・岸信介元首相は「岸」家に養子入りしており、元々の名前は「佐藤」。 実弟は、こちらも総理大臣経験者の佐藤栄作氏ですが、岸信介・佐藤栄作兄弟の先祖は、 源義経の郎党・ 佐藤忠信と言われています。 安倍家の先祖・ 安倍宗任は「前九年の役」にて源氏に破れていることを考えると、歴史の皮肉を感じずにはいられません。 1952年5月30日生まれで、現在(2020年4月)で67歳なので、安倍総理より2歳年上になります。 兄・寛信さんは、安倍総理と同じく 成蹊大学を卒業し、 三菱商事に入社。 中国支社長などを歴任し、現在は 三菱商事パッケージングの社長を務めています。 奥さんは、ウシオ電機会長・牛尾治朗の娘さんで、名前は 幸子さん。 長男の 安倍 寛人さんは、 慶應義塾大学法学部の出身で、安倍総理の政治的な後継者と目されています。 1959年4月1日生まれなので、安倍総理より5歳年下になります。 実は、弟の信夫さんは生後間もなく「岸」家に養子に出されたため、安倍総理とは名字が異なります。 安倍総理と兄弟であることも知らずに育ち、 慶應義塾大学進学時に戸籍を見て、自身が養子であることを知りました。 何で教えてくれなかったんだ… とショックで、一ヶ月くらいは頭のなかが混乱していたそうです。 大学を卒業後は 住友商事に入社し、2002年に退社。 2004年7月の参院選に出馬して当選し、以降、政治の道を歩み続けています。 1962年6月10日生まれなので、安倍総理より8歳年下になります。 実は、昭恵夫人の実家は、製菓メーカーの 森永製菓。 曽祖父にあたる 森永太一郎氏が森永製菓を創業し、実父の 松崎昭雄氏は、森永製菓第5代の社長を務めています。 2人のなれそめは、安倍総理の友人の紹介。 良い人がいる。 会ってみないか と言われ、原宿のパブで待ち合わせました。 結婚当初は 子供は自然にできるだろう と、のんびり構えていましたが、コウノトリは安倍夫妻の前には現れませんでした。 不妊治療に苦しみ、選挙区の後援者らからは、 「嫁として失格だ」「ワシが教えにいっちゃる」 などと責められたこともあったそうです。 今では、昭恵さんは色んなことに整理がついて、 自分の人生はこれでもよかった… と、思えるようになったそうです。 昭恵夫人が目指すものは、 困難な状況にいる子供にとって生きていく希望になる ということ。 写真は、2020年3月27日の参院予算委員会で、「森友学園」関連の公文書改ざん問題が取り上げられたときのものです。 野党議員が持ち時間が過ぎて発言を続けたため、「時間が来てるよ」と2度にわたって言葉を挟んだのでした。 安倍総理は オメガと セイコーを愛用していますが、色などの特徴から、このときはオメガを着用されていたのではないでしょうか。

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安倍晋三の家系図に韓国人?華麗なる先祖一族!兄弟に岸姓がいるのはなぜ?

安倍 晋三 家 系図

スポンサードリンク 安倍晋三のプロフィール 本名:安倍晋三 あべ しんぞう 生年月日:1954年9月21日 星座:乙女座 身長・体重:175㎝・70㎏ 年齢:63歳 2018年2月現在 血液型:B型 その他:1979年に神戸製鋼所に入社 安倍晋三の家系図!!安倍家と朝鮮との繋がりは? さっそく安倍親族の家系図を見ていきましょう!! 順を追って説明します。 まず安倍晋三の父方の祖父にあたるのが 安倍寛 あべ かん です。 あべひろしではないです。 重度の結核を患いながらも孫の晋三と同様、衆議院議員として活動しましたが、 51歳という若さで心臓麻痺により亡くなってしまいます。 そして安倍晋三の母方の祖父にあたるのが、元首相の 岸信介 きし のぶすけ です。 「 昭和の怪物」とも言われた岸信介については知っている人も多いかと思います。 次に、安倍晋三の父にあたるのが 安倍晋太郎 あべ しんたろう。 亡くなった安倍寛の跡継ぎとして、「 政界のプリンス」と言われるほどに活躍しました。 安倍晋太郎には3 人の子供がいます。 長男が 安倍寛信、次男が 安倍晋三、そして三男の 岸信夫。 そして安倍晋太郎の跡継ぎとなったのが、現総理大臣の安倍晋三です。 で、この父親である安倍晋太郎ですが、どうやら 朝鮮人であるという疑惑がでているようです。 仮に朝鮮人だとしたら、安倍晋三含むその子供、先祖一族まで朝鮮人 あるいはハーフやクォーター ということになりますよね…。 この噂の発端はどこから来ているのか調べたところ、 どうやら安倍晋太郎本人が 「俺は朝鮮人だ」と発言した らしい という噂から来ているようですね。 どうやら安倍家の家政婦だった人による証言のようですね。 普通の噂に比べて確かに信憑性はある気はしますが、個人的にはどうも嘘くさく思える… この手の政治が絡むネタだと芸能関係のニュース以上にガセネタが多くでますからね。 特に朝鮮ネタは 朝鮮系の話だと安倍晋三が 統一教会と深い繋がりにあるという噂も流れていました。 色々問題になっている統一教会に対して祝電を送る安倍晋三。 もし本当だとしたら大変なことですね・・・ スポンサードリンク さて、お次は安倍晋三の母にあたる 安倍洋子 あべ ようこ。 つまり岸信介の娘ですね。 「政界のプリンス」と呼ばれた安倍晋太郎に対して、安倍洋子は「 政界のゴッドマザー」と呼ばれており、 非常に多くの人々に慕われていました。 そんな安倍洋子ですが、息子の晋三に対して 過保護だとよく言われてますよね 笑 はたまた安倍晋三の方が マザコンだとも噂されたり・・・ ただ、安倍晋三の妻である 安倍昭恵とはあまり仲がよくないようですね。 森友学園問題の件で安倍昭恵を「 何かあったらケジメをとってもらう」などと叱責したのは有名な話です。 最後に安倍晋三の兄弟です。 前述のとおり、安倍晋三の他に2人の兄弟がいます。 長男:安倍寛信 あべ ひろのぶ 次男:安倍晋三 三男:岸信夫 きし のぶお まずは長男の 安倍寛信から紹介していきます。 安倍寛信は次男の晋三と同じく成蹊大学出身です。 しかし、長男は政治家にはならず 三菱商事に入社。 そして三菱商事パッケージングの社長にまで上り詰めました。 代表取締役としてしっかり載っていますね。 また、安倍寛信には子供が1人いて、 安倍憲人といいます。 安倍晋三には子供がいないので、もしかするとこの安倍憲人が跡継ぎになるのでは? などと少し噂されています。 そして、三男の 岸信夫。 岸信夫は政治家としての道を進み、次男と同じく衆議院議員・自民党員として現在活躍中です。 何故安倍家の子供なのに苗字が「岸」なのか? 多分誰しもが最初に思いますよね。 それについて調べたところ、どうやら岸信夫は生まれて間もない頃に岸家に 養子として入ったようです。 それで安倍ではなく岸の苗字になったとのこと。 岸信夫の出身大学は慶応大学で、政治家になる前は 住友商事で働いていました。 以上が安倍晋三の家系図 先祖一族・兄弟・子供 についてでした!! スポンサードリンク こちらもどうぞ!!.

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安倍晋太郎

安倍 晋三 家 系図

来歴・人物 [ ] 生い立ち [ ] 政治家・、静子夫妻の長男として東京に生まれる。 寛とは、誕生日が同じである。 生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。 晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。 学生時代 [ ] 旧制山口中学校(現・)に進学。 母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わなかった。 一年間浪人した後、(昭和18年)に()に入学。 翌年9月、わずか1年半 で繰り上げ卒業となり法学部に進んだ。 同時に海軍滋賀航空隊にとして入隊。 終結後、改称された東京大学に復学、(昭和24年)に卒業してに入社。 政治家として [ ] (昭和26年)、の長女・洋子と結婚し、(昭和31年)、岸がのとして入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣となって岸に仕えた。 が成立すると、に就任。 外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟のも時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、(昭和33年)のに、郷里の から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。 (昭和38年)のでは落選し、支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、直系の大物議員の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、を後援会長に迎えることによって(昭和42年)ので衆議院議員に返り咲いた。 このため、周東が政界引退する遠因となった。 以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男のへと引き継がれた。 選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。 がの岸と対岸の熊毛郡出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。 岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、(昭和43年)のでは、藤本にから自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。 その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であったがを引き続き務めることとなり、(昭和49年)も再出馬。 (昭和55年)のでは、安倍が推しが後援会長を務めるに地盤をする事となったが、(昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息であるに地盤は戻り、(10年)のでは二木の地盤は後継者へ引き継がれるも落選、無所属のが当選する。 (平成16年)のでは、安倍の実子で岸家へへ入ったが当選した。 この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる(平成25年)ので江島淳の子息である元市長のが就くこととなった。 自民党では、岸派とそれを継承したに所属し、派閥領袖であったを支え、との党内抗争「」を争った。 安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。 行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。 衆議院大蔵委員長を経て(昭和49年)、においてとして初入閣。 以後、(昭和51年)にを務め、(昭和52年)、のとなり、締結などに関与。 1978年(昭和53年)には福田の再選への流れを作るためにはが有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、防衛庁長官が解散反対を公言する などして解散は頓挫。 同年暮れので福田はに敗れ、福田内閣は退陣する。 (昭和54年)から(昭和56年)まで大平総裁の下でを務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。 の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。 政調会長退任直後にでに就任。 この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。 安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。 (昭和57年)、の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。 総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上でを総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見 であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、と思われていたにも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。 岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。 予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。 中曽根は安倍に人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。 では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。 安倍は必ずしも国際派というわけでもないが、義父・岸信介の米国を生かし、韓国など諸国との外交にも尽力したこともあり、などでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。 一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。 また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、を縮めた面も否めない。 (昭和61年)、衆参同日選挙となったで自民党が大勝し、で、安倍は党総務会長に就任。 同時に派閥会長の座も禅譲された。 中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補としてが出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とたちのひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した()。 この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼のであった次男の晋三ら関係者は否定している。 後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だったが激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。 (昭和62年)にが成立し、安倍はに就任。 導入などでの先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。 発病・死去 [ ] (昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現「」)のを譲り受けていたために巻き込まれたが、その最中にが判明し、緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治もいた)。 (平成元年)5月、表向きには「結石治療」と称して手術を受けた。 (平成2年)1月にはを訪問。 総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われたでは、自派から若手議員を大量に当選させた。 同年6月に訪米するも8月に病状が悪化し入院。 9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソ連邦初代大統領の来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行ったがこれが安倍にとって最後の政治活動となった。 1990年(平成2年)9月に再入院した。 この際に次男の晋三から「です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという。 1991年(平成3年)5月15日、入院先のので死去した。 67歳没。 年譜 [ ]• 4月29日:四谷区(現・)に生まれる• は大字蔵小田(現・)• 3月:卒業• 1949年4月:入社• 12月:毎日新聞社退社、外相秘書官に就任• 2月:首相秘書官に就任( - )• 5月:衆議院議員に当選• 11月:農林政務次官( - 11月)• 衆議院大蔵委員長( - )• 12月:農林大臣に就任( - 9月)• 12月:に就任( - 11月)• 11月:内閣官房長官に就任( - 12月)• 11月:自民党政調会長に就任( - 11月)• 11月:通商産業大臣に就任( - 11月)• 11月:外務大臣に就任 - 7月• 7月:自民党総務会長( - 10月)• 10月:自民党幹事長に就任 - 6月 次男のが幹事長秘書となる• 5月15日:死去• 墓所は山口県長門市油谷、のにある 吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形 [ ] 地元・山口県の境内にある記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。 1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。 他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。 安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。 記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、脚部を改造し椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。 なお、同館では山口県出身 の総理大臣であるの蝋人形は何故か展示していない。 韓国や統一教会との関係 [ ] 義父・岸信介は「」・「統一教会」()と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。 「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた 」と言われており、には『』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考: 阿修羅掲示板より記事原文画像 )。 事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援 してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。 には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。 この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。 晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。 晋太郎の福岡事務所が入っていたビルは事業で成功を収めたの実業家の経営する本社のビルであり、末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった。 系譜 [ ] 山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割、現:長門市)の安倍家は、には地元の大を務め、やのを営み、やがて大津郡きってのと知られるようになった家柄である。 になるとが地元の名士として山口県議会議員になった。 彼は「安倍家中興の祖」と呼ばれる。 慎太郎は地元の名門椋木家から婿養子を迎え入れ、その子であるは山口県議会議員を経て、(昭和12年)に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は政治家一家となる。 寛は1942年(昭和17年)のでの推薦なしで当選を果たした議員の一人として知られる。 その息子が安倍晋太郎であった。 安倍家のについては、出身のジャーナリストによれば、安倍晋太郎自身がであり、の末裔にあたると語っていたという。 安倍宗任はのにて、率いるに破れ、に配流されたのである。 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』216-217頁に「家系図をひもとくと安倍家は、以前の奥州征伐などで名高い、前九年の役のにまで繋がる歴史あるである」とある。 安倍家の元は東北地方に飛び、奥州安倍氏の関係地と言われたなど地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わるを調べ歩き、その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、の石搭山荒覇吐(あらはばき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げたという。 元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は昭和62年(1987年)7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、参拝した。 なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家のであり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという。 だが、この石搭山荒覇吐神社は『』に基づいて、同書の「発見者」・が昭和55年()に創建した神社であり、同社所蔵のの遺骨と称する物は後に鑑定の結果、の骨の化石と判明した。 元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。 「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」。 但し、晋太郎にとり宗任は女系の祖先にあたり、父系はの平知貞の系譜をひき、平家滅亡により源氏による迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。 家族 親族 [ ] 安倍家 [ ] (山口県、)• 祖父・ 彪助(椋木家からの婿養子) 生年不詳 - (28年)没• 祖母・ タメ(政治家の妹) 生年不詳 - (明治31年)没• 父・ (政治家) (明治27年)生 - (21年)没• 母・ 静子(山口県、の長女、陸軍の孫娘。 出生直後に生別。 妻・ (山口県、官僚でのちの首相の長女) (昭和3年)生 -• 長男・ (社長) (昭和27年)生 - 同妻・ 幸子(社長の長女)• 二男・ (政治家、第90・96・97・98代) (昭和29年)生 - 同妻・ (社長の長女) (昭和37年)6月生 -• 三男・ (政治家、岸家へ養子) (昭和34年)4月生 -• 異父弟・ (、) (昭和7年)生 - (18年)没 参考文献 [ ]• 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、• 野上忠興 『気骨 安倍晋三のDNA』 、• 『安倍晋三物語』、2003年9月。 『閨閥-特権階級の盛衰の系譜』〈角川文庫〉、2002年3月、改訂新版、62、212-228頁。 演じた俳優 [ ]• (『』、)• (『安倍晋三が号泣した日』、) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• の課程は3年であった。 なお、岸信介と佐藤栄作はともに、• 党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年(昭和53年)の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。 河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。 この時当選した1年生議員に、、、などがいる• 選挙区は中選挙区時代は、小選挙区時代は及びで、山口県に関係する選挙区及び比例代表からは立候補をしていない。 「統一教会」の教祖、は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。 」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。 私が全部そういうふうに作ってあげた。 」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号) 出典 [ ]• 116-118. , p. 217. 218. 日本新華僑報 2012年11月29日. 2016年7月19日閲覧。 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録• 『気骨 安倍晋三のDNA』 169頁• , p. 216-217. , pp. 41-44. 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』• 35「安倍家三代 世襲の果てに」 関連項目 [ ]• 、 外部リンク [ ]• 公職 先代: 第112・113代:1982年 - 1986年 次代: 先代: 第42代:1981年 - 1982年 次代: 先代: 第41代:1977年 - 1978年 次代: 先代: 第46代:1974年 - 1976年 次代: 議会 先代: 1973年 - 1974年 次代: 党職 先代: 第24代:1987年 - 1989年 次代: 先代: 第29代:1986年 - 1987年 次代: 先代: 第29代:1979年 - 1981年 次代: 先代: 第22代:1976年 - 1977年 次代: 先代: 第2代:1986年 - 1991年 次代:.

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