イムジン 河 歌詞。 イムジン河 ザ・フォーク・クルセダーズ 歌詞情報

イムジン河 ザ・フォーク・クルセダーズ 歌詞情報

イムジン 河 歌詞

ただ、最近ある事実を知ったので、それについて。 「イムジン河」は朝鮮民謡ではなく、北朝鮮で作られた歌、それもプロパガンダソングだということです。 プロパガンダソングである所以です。 (出典: 浅川晃広『「在日」論の嘘』108ページ)• ノーベル平和賞をとった、金大中前大統領が 「日本のせいで、朝鮮戦争が起きた」と言ったのには ムカつきますけどね。 プロパガンダソングである所以です。 (出典: 浅川晃広『「在日」論の嘘』108ページ) [イムジン河」がプロパガンダ映画かどうか、その可能性はあると思います。 ただ、2番の歌詞のような意味ではないと思います。 この歌が歌われた68年当時、どちらの国がより「自由」かなどということはほとんど問題ではなかったからです。 確か69年には金大中事件があったりして「自由」が今ほど問題視はされていなかったはずです。 >この歌が歌われた68年当時、どちらの国がより「自由」かなどということはほとんど問題ではなかったからです。 確か69年には金大中事件があったりして「自由」が今ほど問題視はされていなかったはずです。 まず、資本主義国と共産主義国とでどちらが自由であるか、ということは、両陣営のイデオロギー闘争が盛んだったあの時代にはよく議論されていました。 それをご存じないのでしょうか? 今からすれば共産主義国に自由がないことは明らかですが、当時の日本の左翼知識人は、「資本主義国の自由は腐敗した自由であって、高次の自由が共産主義国にはある」などという言い方をしていたのです。 それから金大中事件ですが、これはたしかに韓国にとって汚点と言える事件です。 しかし資本主義国が一定レベルに成長して経済的な恩恵を誰もが受けられるようになるまでは、国内の政治的異分子を多少の強権をもってしても押さえつけなければならない場合がある、ということは、現在比較的多くの人たちに認められています。 これは「開発独裁」という言葉で説明される事態です。 つまり、経済成長を遂げる前に政治的自由の方だけを一方的に認めてしまうと、政治的闘争で国内がばらばらになってしまい、国民のエネルギーもそちらで消費されてしまって、経済成長が不可能になるのです。 むしろ最初は政治的な強圧で国内秩序を維持することを優先して、その結果経済成長をなしとげたあとに、徐々に先進国並みの政治的自由を認める、という順序をとることが望ましいのです。 また、こうした開発独裁下であっても共産主義国家よりははるかに言論の自由はあるわけであって、先進国並みの言論の自由が開発独裁の国家にないからという理由だけで非難するのは物事の半面しか見ないやり方です。 朝鮮半島の場合、上記の理論が正しかったことは、金大中事件にもかかわらず経済的に豊かになった韓国と、まったく逆の北朝鮮を見れば明らかでしょう。 私の方もどう答えたら良いかよく解りません。 そこで答えにはなりませんが、当時(68年)の個人的状況について説明します。 68年は大学1年であり、69年〜70年頃スナックでよくこの歌を歌っていました。 もちろん伴奏は友人のギターでしたが・・・・ そのときこの歌のレコードが発売中止になったのは、北朝鮮のクレームがあったからだと言われていました。 日本語の歌詞が元歌と違うからだと聞かされました。 よっぽど北朝鮮にとって都合の悪い文句があるのだろう、ということでしたが、不思議なことにその内容、つまりどの部分かは聞かされませんでした。 私や私の周り(もちろんそれは日本のごく一部でしょうが)ではこの歌のレコードが発売中止になったのは、北朝鮮のせいだということは常識です。 その流れからすると、この歌が北朝鮮のプロパガンダソングというのは、はなはだおかしなことと感じています。 当時私たちは「自由の使者」は鳥自体の象徴と捉えており、どこからどこへ飛ぼうと関係なかったことです。 資本主義における「自由」と共産主義の「自由」についての議論は多少聞いたことがありますが、私たちにとっては、それは「議論」のための議論でしかありませんでした。 ましてや「開発独裁」など無関係な議論の道具でしかありませんでした。 これらは今もって、「そんなことは知りません」と言い切っても言いと思っています。 無関係なことを続けますと、私が大学へ入った時、驚いたことが二つあります。 ひとつは私が入った大学(東京の私学)などに浪人までして入る人などいない、と思っていたところ、7割近い学生が浪人経験者だったこと。 もうひとつは、その浪人経験者から「浪人していないやつは苦労していないから、ダメなんだ」と言われたことです。 「浪人」(狭い意味で)なんて選択肢が私にあったと思っているのか?まあ通常は当時でもあったのでしょうが、私や私の周りにこの選択肢はありませんでした。 広い意味での「浪人」は数人居ました。 彼らは高校卒業後2〜3年会社勤めをして、入学金・授業料を貯めて入学しました。 その彼らと比較して、「苦労していない」と言われれば、それは確かにそうですが、親の丸抱えで生活したものに言われる覚えはない、と感じたものでした。 私の場合、高校卒業後の進路としては、授業料免除の特待生か特別奨学金を貰って、大学生となるか、そうでなければ、初級の国家公務員になるしか道はなかった状況でした。 これらのことは、私の個人的な状況にすぎない、と言われればそれまでのことですが、地方それも過疎化が進んでいる日本の末端に住んでいる一人としての感想を述べました。 ただ、おっしゃっていることはあくまであなたの生きた過程のなかでの「イムジン河」体験であって、客観的な事実ではありませんね。 その二つは別のものでしょう。 ちなみに私はあなたより数年遅れて大学生活を送った人間ですが。 「イムジン河」の原詞がどうであったかは、Wikipediaの以下の記述で分かりますが、ここからも北朝鮮のプロパガンダソングであることは明瞭だと思います。 日本ではそれが多少変形された、ということですね。 >この曲はもともと朝鮮民主主義人民共和国では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世永の作詞によるものであった。 オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、一番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、二番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。 松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむもともとの二番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく違う物となっている。 松山の歌詞には、オリジナルにはない三番がある。 また、日本国内での発売中止に関しては、同じくWikipediaに以下のように書かれています。 つまり、北朝鮮の抗議はあったとしても、それだから北朝鮮のプロパガンダソングではない、という結論にはならないわけですね。 >東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが朝鮮民主主義人民共和国の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求めていた。 後者に関しては、洋楽の日本語訳詞でも原詞と完全に一致する訳で無い物も多かったためあまり問題ではなかったものの、レコード会社は国交のない朝鮮民主主義人民共和国の名を出すことを躊躇し、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国の曲が日本国内でヒットすることを望まなかったためレコード会社に圧力をかけ、結果発売自粛となったようである。 また、東芝音楽工業の親会社の東芝が大韓民国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説もある。 まず、結論から言えば、私は「客観的真実(事実)」のみではほとんど意味はないと考えています。 それが歴史上意味を持つのは「主観的真実」を伴った場合だけだと思います。 例えば沖縄戦での集団自決に軍の関与があったかどうか、に関してある人は「自決命令(書)があったという証拠はない。 反対の証拠ならある。 」と言って、だから軍の関与はない、と言っています。 ここで考えねばならないのは、命令などという形で情報伝達されるだろうか?と言うことです。 現在でもKY 空気が読めない という言葉がある通り、この種の情報は「空気」で伝達された可能性が高く、客観的事実としては、証拠ははじめからなかった可能性が高いのではないかと思います。 逆に反対の証拠はある可能性があると思います。 しかしそれがどれほどの重みがあったかは大いに疑問が残ります。 官公庁と少しでも付き合いがあれば分かると思いますが、例えば当初の指示書が変更される場合、必ずしも文書で先の指示内容を変更するとの指示が下されるとは限りません。 口頭で「先の指示書は無視してください」で終わる場合もあります。 それで何事もなければ、そのままですが、これが失敗だったり、世間の非難を浴びる状況になどなったら、どうでしょう? 結果ははっきりしています。 客観的事実としては先の指示書だけです。 最大限好意的に解釈しても、我々は勘違いをして、指示内容と違うことをして失敗した、としか思われません。 悪く解釈されれば、意図的に役所の指示を無視したため、このような結果を招いた。 これからは役所の規制をもっと強めなければ・・・ということになるのはあきらかでしょう。 あと、余計なことですが、私の若いときからの愛読書はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」、キルケゴールの「死に至る病」「不安の概念」で「自由」や「事実」というのはこういう方面からの見方をしていると自身では考えています。 おっしゃっているのは、上に立つ人間が下の人間に指示を与える場合、書類などのように後に残る形で伝達がなされるとは限らないということですね。 これは現代でもそうで、お役所が何かを操作する場合、文書だけでなく役人当人の口頭その他の手段による伝達があります。 あとに証拠は残らないけれど、実際には役人が自分の都合のいいようにやっている。 だけど証拠がないからあとで責任を追及されることもない、というわけです。 しかしこのスレッドで問題になっているのは、『イムジン河』が北朝鮮のプロパガンダソングか否か、という事実です。 たしかに、それを知らないで歌った人間が、だからプロパガンダに毒されていることになるかどうかはまた別の問題です。 そもそも歌というのは歌詞だけで見れば単純なわけで、それを歌ったからといって即、北朝鮮は素晴らしい国だと思い込むようになるかと言ったら、必ずしもそうではない。 「Fuck」という単語がやたら出てくるロックを歌った人間が、現実にFuckをやりまくるかかといったら、必ずしもそうではないのと似ています。 だけど、逆に、プロパガンダソングなんてことは知らないで歌っていたのだから『イムジン河』はプロパガンダソングではない、という言い方で事実を否定すれば、それは世の中には事実なんてない、受け取る人間の主観だけなのだ、という不毛な結論しか出てこない。 例えば殺人を犯しても、俺は殺すつもりではなかったから殺人ではない、或いは、本人に頼まれて殺してやったのだから殺人ではない、という主観が通るかと言ったら、通るわけがないのです。 世の中、そういうものであって、主観で世界をおおいつくすことができるわけがない。 それからエーリヒ・フロムの自由論ですけど、これは共産主義対資本主義のなかで論じられた自由論とは別のものでしょう。 人間は自由に耐えきれなくてそこから逃げだすというのが、ファシズムがなぜ20世紀に生じたかを説明しようとしたフロムの基本的な問題意識です。 書かれたのは戦時中だけど、読まれたのは戦後で、つまり過去となったファシズム時代を理解するために読まれたわけです。 これが破綻していることは、現代では明白です。 また、金大中事件前後の日本のマスコミは、韓国の政権がしばしば強圧的であることを批判していましたが、北朝鮮については沈黙を守っていました。 1960年頃にいわゆる在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」者が多く出たのは、そうしたマスコミの一方的な報道にも多少の責任があるはずです。 日本で北朝鮮の内実が或る程度マスコミに出るようになったのは『凍土の共和国』が出た1984年頃からで、さらに、テレビや新聞で北朝鮮批判がためらいなくなされるようになるのは横田めぐみさんなどの拉致を「将軍様」が認めた小泉政権時代になってからのことです。 『イムジン河』日本語訳2番の歌詞は、あきらかに以上のような時代の影をひきずっています。 その意味で、プロパガンダソングであることを免れていません。 別に私はそうではないと、言い張るつもりはありません。 ただ、このような歌を「プロパガンダ」とか言って問題にするのはいかがかな、と思っているだけです。 実際、世の中には「プロパガンダ」じゃないかと思われるものが溢れています。 そのひとつひとつに惑わされないためにも、あまり神経質にならない方がいいのでは・・・と思っている次第です。 神経質になることが返って相手の思う壷にはまることもあるんじゃないでしょうか?• 返信を投稿• プロパガンダソングである所以です。

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【「イムジン河」50年目の真実(4)】原曲と「3カ所の違い」(1/3ページ)

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心に深い傷と孤独を抱える人々の、再生への旅路を描いた感動のヒューマン・ドラマです。 2000年カンヌ国際映画祭で高い評価を受け、国際批評家連盟賞とエキュメニック賞を受賞。 独特のセピアカラーの映像演出により、静かな情景のなかに登場人物の繊細な心理と世界観が見事に描写されます。 主演を務める役所広司ほか、宮崎あおい(『初恋』)が抜群の存在感ある演技を披露しています。 【あらすじ】バスジャック事件に遭遇し生き残った、運転手の沢井真と、中学生の田村直樹と小学生の梢の兄妹。 2年後、彼らは再会し、それをきっかけに奇妙な共同生活をはじめる。 そこに、突然現われた兄妹の従兄も加わり...。 塩谷瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカなどの若手俳優を起用し、井筒和幸監督が作り上げた青春ドラマ。 1960年代の京都を舞台に、若者たちの恋と対立を軸に描きながら、日本と朝鮮の深い溝も問題として取り上げられている作品です。 【あらすじ】1968年の京都。 担任から言われ、親善試合の申し込みに朝鮮高校にやってきた府立東高校の松山康介。 ブラスバンドの音色に誘われるままに音楽室をのぞき込み、フルートを吹くキョンジャに一目ぼれをする。 しかし彼女は、府立東高校とは争いが絶えない朝鮮高校の番長アンソンの妹であることが分かり...。 YouTubeで「イムジン河」を検索していたら、奇妙なコメントのある動画に気がついた。 ザ・フォーク・クルセダーズの歌っている動画が「発禁前歌詞バージョン」とあったからだ。 「反戦フォーク」の代表曲のようにいわれる「イムジン河」も特別な政治的意図があったわけではないという。 「単純にいい曲だと思って。 北朝鮮の歌とは知らなかった。 もとは友人の松山(猛)君が中学時代に朝鮮学校で聴いてきた歌で、日本語詞は彼に書いてもらった。 舞台は朝鮮半島ですが、僕はそれだけがテーマじゃないと思っている。 『イムジン河』はどこにでも流れている。 国と国、上司と部下、男と女。 人と人の間にできる『溝』ととらえることができる」 「帰ってきたヨッパライ」に続くシングル第2弾として発売予定だった同曲だが、発売前にラジオで同曲を流したところ、レコード会社が突然、発売中止を決めた。 「発売元の東芝に、朝鮮総連から作曲者の出身国名をクレジットするよう要請があったんです。 でも当時、北朝鮮は国際社会で正式に国として認められていなかった。 問題を避けるために発売を自粛したというのが、本当の理由です」 (p. 10) フォーククルセダーズが 1968 年に発表した「イムジン河」 朴世永原詞・松山猛訳詞・ 高宗漢作曲 という作品も発表当時に放送禁止の指定を受けたと伝えられている。 「イム ジン河」の放送禁止をめぐってはいくつかの説がある。 第一の説としては、「イムジン河」 は朝鮮半島を舞台にした歌であり、もともとは朝鮮半島で歌われていたのだが、その歌詞 を翻訳する際に誤訳があり、「北の大地から南の空へ/飛びゆく鳥よ/ 自由の使者よ」と いう訳詞が、北朝鮮から韓国へ亡命する人々の姿を連想させ、さらにその行動を「自由の 使者」と表現することで、南側、つまり韓国よりの思想を強く感じさせるという点が問題 視されたという経緯があると伝えられている。 また、「発売直前に北朝鮮系の朝鮮総連から 「歌詞が原詩と違い、正しい意味を伝えていない」」といった意見や、「「(作者不詳とされ ていたが)北朝鮮の歌であり、れっきとした作者もいるので、明記するように」とクレー ムがつき、諸般の事情から発売が中止された」という経緯もある。 しかしながら「イム ジン河」をめぐる騒動では、噂話や憶測が交錯しており、クレームをつけたのは北朝鮮側 ではなく、韓国政府からであったという説や、外交問題を考慮して日本政府 内閣調査室 がその発売を禁止するようにレコード会社に要請したという説もある。 これらの説はいず れも信憑性が薄く、森達也氏自身も「真相は未だに僕にはわからない」とも語っている。 なお、「イムジン河」という作品は自主製作アルバム『ハレンチ』 インディーズ作品 に収録されていたものを、メジャーデビュー第 2 弾として発売しようとしたものであった が、放送禁止扱いになると同時に、「レコード製作基準」 通称「レコ倫」 の「国際親善条 項」に抵触したとして、発売中止の扱いも受けている。 フォーククルセダーズというグ ループはこの後に「悲しくてやりきれない」という楽曲を発表しているが、レコ倫による 発売中止措置や放送禁止措置に対抗して、「 イムジン河」の曲の最後から頭の部分へと逆方 向に譜面をおこしたものが「 悲しくてやりきれない」の メロディであると伝えられている。 さらにこの曲のタイトルの由来は、「イムジン河」を発売できなかったときのやるせなさか らきているという説もあり、歌謡曲規制に対する歌手側の不満の大きさが分かるエピソー ドであると言えるだろう。 発売自粛の理由(ウィキペディア) この曲はもともと北朝鮮では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世永の作詞によるものであった。 オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。 松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむもともとの2番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく異なる物となっている。 さらに松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。 東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが北朝鮮の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求めていた。 後者に関しては、洋楽の日本語訳詞でも原詞と完全な一致はしない物も多かったためあまり問題ではなかったものの、レコード会社は国交のない北朝鮮の名を出すことを躊躇し、大韓民国も北朝鮮の曲が日本国内でヒットすることを望まなかったためレコード会社に圧力をかけ、結果発売自粛となったようである。 また、東芝音楽工業の親会社の東芝が大韓民国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説もある。 2002年の再発の際にも、原盤を制作したフジパシフィック音楽出版(制作当時パシフィック音楽出版)社長の朝妻一郎(現会長)が原盤権を譲渡していた東芝EMIに発売を持ちかけたが了承せず、フジパシフィック音楽出版が原盤権を取り戻し、アゲント・コンシピオから発売にこぎ着けたという。

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イムジン河 [臨津江] (림진강/임진강) フォーククルセダーズ プロテストソング・トピカルソングの傑作集

イムジン 河 歌詞

この曲の朝鮮語による歌詞は,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を本国とする著作物であり,日本国著作権法上の保護対象ではありませんが(), 米国著作権法上の保護対象です()。 ウィキペディア日本語版は発信地(サーバの所在地)である 米国著作権法及び主な受信地である日本国著作権法の双方 に準拠すべきとされており(),従って この曲の歌詞をウィキペディア日本語版に掲載することはできません。 朝鮮民主主義人民共和国では「リムジンガン」と発音するが、日本では韓国語の発音に由来する「イムジン河」と表記することが一般的である。 概要 [ ] 作詞は ( 박세영)、作曲は ( 고종한、 - )。 、北朝鮮の機関誌『朝鮮音楽』8月号付録の楽譜集『8月の歌』( 8월의 노래)にて発表された。 の「朝鮮民主主義人民共和国創建10周年記念放送夜会」にて、歌手のにより初演された。 なおにのが作曲者の高宗漢とコンタクトを取り初演の音源を探すよう依頼したが、発見できなかった。 その後は長らく北朝鮮ではステージで披露されることもなかった。 にが用に編曲したものがで開催された「朝鮮管弦楽集」で初演され 、にはの訪朝公演で披露された。 には李喆雨の「初演の演奏を再現したい」という要望に応え高宗漢の協力での歌手リ・ソンヒがこの曲を吹き込んだ。 には・ので開催したリサイタルでが歌唱。 北朝鮮の歌を韓国で歌うということで、長い審議の末に許可が出たという。 現在では韓国でも普通に歌われており、中でもフォーク歌手・(ヤン・ヒウン)が原曲にほぼ近い詞・曲で歌ったものが有名である。 にが訪朝公演での前で南北朝鮮の曲やの流行歌など31曲を歌った中の一曲であり、「」「 (イビョル)」と共に朝鮮語と日本語訳詞を交えて歌われた。 北朝鮮のでソプラノ歌手のがに収録している。 合唱団による合唱バージョンや北朝鮮の作曲家・によるピアノ独奏編曲「リムジン江をテーマにしたピアノ幻想曲」、四重奏団による「ピアノ四重奏曲・リムジン江」なども存在する。 への紹介はに傘下の出版社・発行のポケット歌集『新しい歌集 第3集』( 새노래집 제3집)にこの曲が収録されたことに始まる。 には監修の歌集『はたらくものの歌集』()に、には『日本青年歌集』に収録され、にはの音楽教科書に掲載された。 の歌詞がついたものとしては、次のものがよく知られている。 によって歌われたによる日本語詞 ()• によって歌われたによる日本語詞(1968年)• によって歌われた自身による日本語詞 ()• によってコンサートで歌われた日本語詞 (。 DVD『ロングロングコンサート 第一章 20世紀公演』収録)• によって歌われたによる日本語詞 (2000年) 「幻の3番」 [ ] に発表されたオリジナルのに掲載された歌詞は2番までであるが 、実は3番の歌詞(朴世永の作詞による)が存在するという説がある。 李喆雨は生前の高宗漢から3番の歌詞があるらしいと聞かされていたという。 、李が再訪朝し北朝鮮の当局者に3番の歌詞を探すよう依頼したが、見つからなかったという返答と共に代わりの歌詞を渡されたという。 ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」 [ ] 「 イムジン河」 の 初出アルバム『イムジン河』 蛇に食われて死んでいく男の悲しい悲しい物語(1968年盤) (2002年盤) リリース 1968年2月21日 1968-02-21 (発売中止) 2002年3月21日 2002-03-21 規格 (1968年盤) (2002年盤) 録音 1968年2月1日 1968-02-01 (1968年盤) (2002年盤) 作詞:、(訳詞) 作曲: チャート最高順位• 14位(、2002年盤) シングル 年表 () イムジン河 () (発売中止) () ザ・フォーク・クルセダーズ 年表 () イムジン河 () () 解説 [ ] 日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年 1968 前後にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。 (リムジン江) で分断されたについての曲であり、主人公は 臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。 もともとは、のちにフォーク・クルセダーズやの作詞を担当することになるが、での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていたの学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。 松山はトランペットの練習をでよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校のと親しくなり、とを教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたもの(彼の姉が書いてくれた)と、朝日を渡された。 後年、松山はフォーク・クルセダーズ(当時はまだアマチュアで、厳密には「フォーク・クルセイダーズ」と名乗っていた)のメンバーと知り合いになり、に口頭でメロディを伝えた。 それを加藤がしたものがこの曲であり、原曲の「 臨津江」とは全く成り立ちが異なる。 教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた。 それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。 のことだった。 東芝のによれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃には既に「第二弾は『イムジン河』で行ける。 『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考えていたという。 つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。 少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があった。 ところが発売前に数回にかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日であり発売予定日の前日の1968年 、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷され、うち3万枚が未回収に終わる )。 結果的にな雰囲気が広がる。 こうした風潮の中、のディレクターは自粛後もラジオでかけ続けた。 なお、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のB面曲として発売される予定であった「蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」は、1970年 1970 に「大蛇の唄」としてシングル発売された。 1967年 1967 に発表した自主制作盤『ハレンチ』には、このシングル版とは別バージョンの「イムジン河」(松山の3番の歌詞がなく、代わりにの歌詞を含む)が収録されている。 原曲と1968年 1968 のザ・フォーク・クルセダーズ版では・が3か所違う。 その後もキム・ヨンジャやザ・フォーシュリークは原曲のメロディで歌い、都はるみや再結成後のザ・フォーク・クルセダーズは1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版のメロディで歌っている。 1968年 1968 のザ・フォーク・クルセダーズ版で編曲を担当している「ありた・あきら」は、当時の専属の()のペンネームである。 発売自粛の理由 [ ] この曲はもともと北朝鮮の曲で、松山やメンバーらの考えていたような「作詞・作曲者不明の朝鮮 」ではなく、朴世永の作詞、高宗漢の作曲による楽曲であった。 松山が制作した2番の歌詞は、に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく異なる物となっている。 さらに松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。 (その後、4番の歌詞をきたやまおさむが作詞している) 発売中止になったのはの国際親善事項に触れたとされることや 、通説としてはが内容が南側に偏っていると抗議したとされるが 、1968年2月19日 1968-02-19 、東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めた。 レコード会社はのない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇し、結果として発売自粛となったようである。 当時の新聞記事には「朝鮮総連が謝罪広告を出すことと原詞に忠実に訳すことを求めた」という内容が散見されるが、朝鮮総連側やの記憶には該当する証言はない。 また、東芝音楽工業の親会社のが韓国内での製品の拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説 、国内での反政府運動を助長すると韓国政府からの抗議があった説、から上下黒の背広の人間が捜索に来たと証言する東芝関係者もいるが、は内調関与説はいくら国際問題が関係していてもそんなことはありえないし上下黒の背広の出達だったとする証言も漫画チックであると否定している。 2002年 2002 の再発の際にも、を制作した(制作当時パシフィック音楽出版)社長の(現会長)がを譲渡していた東芝EMIに発売を持ちかけたが了承せず、結局フジパシフィック音楽出版が原盤権を取り戻し、アゲント・コンシピオから発売にこぎ着けたという。 その後 [ ] 1992年 1992 に、から発売された『BEST OF SOLID VOL. 1』に「イムジン河」が収録。 1995年 1995 に同じくソリッド・レコードから、1967年 1967 に発表した自主制作盤『ハレンチ』に、発売中止となった「イムジン河」(スタジオ・ヴァージョン)を追加したアルバム『ハレンチ+1』が発売された。 ただし、としての発売だったこともあってか後述のシングル発売ほどは話題にはならなかった。 2001年 2001 には「日本語詞:松山猛、編曲:加藤和彦」としてに登録された(北朝鮮は当時に加盟していなかったため、原曲の作詞者・朴世永と作曲者・高宗漢の著作権は2018年時点でも「」となっている)。 2002年3月21日 2002-03-21 、アゲント・コンシピオ(販売委託・)より34年の歳月を経てシングル版が初めてとして発売された。 この日は加藤和彦の55回目の誕生日だった。 2002年4月15日 2002-04-15 付ので最高14位を記録した。 2002年 2002 版のシングルは累計10万枚以上を売り上げた。 日本国内における1970年 1970 前後の過敏な状態も、 - 前半頃には表面的には収まっており、ザ・フォーク・クルセダーズを扱った番組や、ラジオ局の開局記念番組などで「音楽史の一部」として放送されている。 かつてが存在したが、森達也が取材した1990年 1990 代にイムジン河を番組内で使用したのディレクターはそれが気になって調査するも放送禁止に指定された事実はなかったと判断して使用したが、音楽評論家は放送禁止歌として有名であり指定されていなかったことはありえないと否定しての制度だがNHKが入っていないのは歩調がとれないため適用されるはずと話し 、制度が最後に改訂された1983年では指定されおらず、それ以前の指定状況は民放連側の記録がなく不明。 、 ただし、以降でも放送の自粛が完全に終わったとは言えない状況である。 たとえば、「イムジン河」が劇中曲として使われた2005年 2005 公開の『』ので各放送局を廻った担当者は、どの局でも「イムジン河」と聞いただけで難色を示されたという。 また、この歌が昼間にあるいはから流れることは滅多にない。 2012年8月2日 2012-08-02 、 21:10〜 の全国ネット『』にての「イムジン河」 が放送され、松山猛の日本語詞が一般音楽番組で一楽曲として扱われた。 2017年現在、データベース上ではがとして登録されている。 作品/出典:PO 出版者作品届。 作品コード: 008-1325-7。 ザ・フォーク・クルセダーズによる1968年 1968 スタジオ録音音源のは、JPK606850006。 「悲しくてやりきれない」との関係 [ ] なお、発売自粛となったこの曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売された曲が「」であり、2002年 2002 に発売されたシングルCD「イムジン河」のカップリングにも収録されている。 同曲は「イムジン河」のを反対からつなげて作ったという話も残っているが、上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。 1998年10月26日 1998-10-26 放送の『』にて加藤は「某出版社(パシフィック音楽出版 )の会長室に3時間限定で缶詰にされた。 最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。 イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」と証言している。 収録曲 [ ] 1968年盤 [ ]• イムジン河• 作詞:、訳詞:、作曲:高宗漢、編曲:• 蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語• 作詞:、作曲: 2002年盤 [ ]• イムジン河• 作詞:朴世永、訳詞:松山猛、作曲:高宗漢、編曲:ありた・あきら• 作詞:、作曲:加藤和彦、編曲:ありた・あきら ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」 [ ] 「 リムジン江」 ザ・フォーシュリーク の フンタリヨン(興打令) リリース 1968年11月25日 1968-11-25 規格 young pops 作詞:、(訳詞) 作曲: チャート最高順位• 19位() ザ・フォーシュリーク シングル 年表 リムジン江 () 君よ! 当時「手売りだけで10万枚」以上(李喆雨による)または「20〜30万枚」(による)を売り上げた。 なお、これはの指定を受けた (1977年11月30日当時はAランク指定(放送禁止)だったが、1978年9月5日 1978-09-05 時点 ではBランク指定(旋律のみ使用可能)に変更されている )。 シングルの発売元は企画:、制作:ユニゾン音楽出版社、:ヤングポップス。 はA面がOYP-1001、B面がOYP-1002。 B面曲は朝鮮民謡「フンタリヨン(興打令)」。 「イムジン」と「リムジン」 [ ] 語頭の違いはが関係する。 現在のにおいては、単語の冒頭のR音は、無音化(つまりのみ発音)するか、N音として発音される。 一方、においては、の綴り通りにR音で発音される。 要するに「 イムジン(: 임진)」と「 リムジン(: 림진)」とは「南」と「北」とのの差異であって、同じ河川の呼称である。 収録曲 [ ]• リムジン江(イムジン河)• 作詞:、訳詞:、作曲:高宗漢、編曲:由良一夫• フンタリヨン• 発売元はの千曲音楽出版。 規格品番はTPR-1002。 千曲正一版は日本民間放送連盟の1969年8月21日の調査によって、加藤和彦版と共に「メロディー自体が韓国人にとって屈辱的なもの」であり、「(韓国人の)国民感情を考慮して」放送禁止とされた。 但し要注意歌謡曲には指定されなかった。 1983年6月 1983-06 に、を逆にして再発売された。 発売元は川西の自費製作によるのANレコード・川西音楽出版。 企画・制作・出版・著作権/烏山ハウジング。 規格品番はAN-1001〜02。 収録曲 [ ]• イムジン河• 作詞:西村良夫、採譜:川西杏、編曲:今泉俊昭• TPR-1002では「作詞:朴世永、作曲:高宗漢、訳詞:李良夫、編曲:今泉俊昭」とクレジットされている。 みれん — あの日別れたあなたを想い —• 作詞・作曲:川西杏、編曲:広瀬雅一• 『』入選曲• TPR-1002では「作詞・作曲:千曲正一、編曲:広瀬雅一」とクレジットされている。 ミューテーション・ファクトリー版「イムジン河」 [ ] 「 イムジン河」 ミューテーション・ファクトリー の リムジンガン リリース 1969年7月 1969-07 規格 録音 1968年10月20日 1968-10-20 ・ 作詞:、(訳詞) 作曲: 秦政明 解説 [ ] 1969年2月 1969-02 には・平沼義男・芦田雅喜の3人によって結成されたフォークグループ、ミューテーション・ファクトリー(平沼・芦田はアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズのメンバーであり、このグループはザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」発売中止を受け、松山の訳詞による「イムジン河」を残そうと急遽結成されたグループである)によって、北山修をに迎えて松山猛の訳詞・加藤和彦の編曲による「イムジン河」を吹き込み、から会員配布()された。 1971年7月 1971-07 に市販用シングルが発売された(は配布版・市販1stプレスがURS-0001、市販再発版がURT-0057)。 シングルB面は同曲の朝鮮語版(では「リムジンガン」と表記)。 収録曲 [ ] 1968年盤 [ ]• イムジン河• 原詞:、作詞:、作曲:高宗漢、編曲:• リムジンガン• 作詞:朴世永、訳詞:、作曲:高宗漢、編曲: クレジット [ ] 唄• ミューテーション・ファクトリー• 平沼義男• 芦田雅喜 サイドメン• /ギター・フレーテ• /ギター• /ベース• ディレクター/北山修• ミキサー/松田宏• 録音日/• スタジオ/• 表紙デザイン/広野勝• 2番の歌詞の一部を変更している。 松山猛の訳詞による「イムジン河」は、にのアルバム『高石友也フォーク・アルバム第3集(+4)』、にはのアルバム『miss you amami』、にはがシングルで、にはのアルバム『Hello Again』、のアルバム『Ba. Lu de Jiro』、にはのシングル「青い空は」のカップリングとして、それぞれカバーされている。 松山猛の訳詞でない日本語詞としては、、寒暖計がの訳詞により「哀愁のリムジン河」として発売し、、のアルバム『オールドファッション・ラブソング』に自身の訳詞による「イムジン江」が、にはのアルバム『虹の架け橋』にの訳詞による「イムジン江」が、、キム・ヨンジャのシングル「夢千里」のカップリングに同じく吉岡治の訳詞による「イムジン河」が収録されている(『虹の架け橋』収録版とはバージョン違い)。 キム・ヨンジャ版では、日本語と原詩のの歌詞を交えて歌っている。 同じく2002年、のアルバム『こころね』に李錦玉の訳詞による「リムジン江」が収録された。 のアルバム『彼処此処(おちこち)』では、朝鮮語・・を交えた歌詞の「イムジン河」が歌われている。 の発売のシングル「イムジン河〜響け我が想い〜」には、の「イムジン河」が収録されている。 には、が「イムジン河2009」と題して歌っている。 こちらは2番まではフォークルのシングル版、3番を「イムジン河〜春〜」(後述)の3番、そして4番にはが新しく作詞したものが追加されている。 このバージョンは翌にはきたやまが福岡のバンド・と共同でし、アルバム「あの素晴しい愛をもう一度」に収録している。 発売のザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『若い加藤和彦のように』にの歌詞を含む「イムジン河」が収録された。 フランス語の部分の訳詞と歌唱はによる。 には李喆雨の自主製作で「イムジン河」(臨津江)の様々な録音を収録した『臨津江(リムジンガン)物語』が発売された。 その他、多数の歌手によるカバー版が発売されている。 テレビ放送 [ ] 放送では、前半に、で放送されたフォークソングの特集番組で、とのがセッション。 に同じくで放送された『フォーク大集合』にて加藤和彦・坂崎幸之助・の3人でセッション。 6月に『』にてがライブで歌い、には、吉岡治の訳詞をキム・ヨンジャが歌ったものが『』のワンマンショーで、に『』でそれぞれ放送電波に乗った。 キムの『』での歌唱時の瞬間視聴率は51. にはザ・フォーク・クルセダーズのコンサート『新結成記念解散音楽會』がで放送され、そこに含まれるかたちで松山猛の詞による「イムジン河」が放送された。 ここではの1968年当時の歌詞と、による新たな歌詞をつけた『イムジン河 〜春〜』の2つが披露された。 のの『青春のグラフィティコンサート2005』では松山猛の1〜3番の歌詞に加え,「イムジン河 〜春〜」の詞を4番に加えた「イムジン河」をが披露した。 また、の「きたやまおさむ九州大学さよならコンサート」ではきたやまと坂崎のデュオで、フォークル時代の1番、2番に「〜春〜」の三番の歌詞を加えたバージョンを歌っている。 、の内にて開催された『HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2006』にて「ポーク・クルセダーズ」名義にて一夜限りの5度目となる再結成コンサートが行われた際、が翻訳に協力しが松山猛版の歌詞の2番部分ののを行ったものが歌唱された。 この朝鮮語詞は松山猛による日本語詞を基に制作されたものである。 アンサーソング [ ] 「 イムジン河のほとりで」 グリーン・フィールズ の 明日の夜明け リリース 1969年9月 1969-09 規格 作詞: 作曲: 解説 [ ] 1969年9月 1969-09 、笹島斌・大阿久芳樹・吉田浩二・川手国靖の4人によって結成されたフォークグループ、グリーン・フィールズによる「イムジン河のほとりで」(作詞:、作曲:)がのDENONレーベルから発売された。 規格品番はCD-38。 1969年10月8日 1969-10-08 に日本民間放送連盟による要注意歌謡曲の調査対象となったが、「『イムジン河』で問題になったような政治的背景は考えられない」という理由で指定されなかった。 しかし同年10月22日の報告によるとの審査漏れがあったとし、11月の委員会に合格するまでレコード会社は製造・販売を中止することに決めたという。 収録曲 [ ]• イムジン河のほとりで STANDING BY THE RIMJIN RIVER 作詞:、作曲:、編曲:ありたあきら• 明日の夜明け TOMORROW'S SUN 評価 [ ] 原曲の歌詞について、北山修は北朝鮮によるに近い内容と評している。 脚注 [ ] []• 松山猛 『少年Mのイムジン河』 木楽舎、2002年、32頁。 『少年Mのイムジン河』 、、44-45頁。 (のキャッシュ)• 「」2009年10月18日社会面、の自殺を報じる記事• 『放送禁止歌』知恵の森文庫、2003年 104頁• 「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『』2002年8月12日号• 森達也『放送禁止歌』32頁• 森達也『放送禁止歌』32-33頁• 森達也『放送禁止歌』68、71頁• 『蘇る封印歌謡 付 』 、。 2013年 2013 頃まではとが、2014年 2014 時点ではがとして登録されていた。 だけで出版者が頻繁に変遷している。 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』 ヤゲンブラ選書 、、112頁。 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』113頁。 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』114頁、246頁。 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』125-126頁。 『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように』、、40-43頁。 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』126-127頁。 参考文献 [ ]• 「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『』、2002年8月12日号• 『禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史』 〈〉• 関連項目 [ ]• — 松山猛による訳詞の創出が作中にモチーフとして取り入れられている。 外部リンク [ ] urcrecords. com• その他•

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