復習 を 希う 最強 勇者 小説 家 に な ろう。 二度目の勇者は復讐の道を嗤い歩む

復讐を希う最強勇者は、闇の力で殲滅無双する / 原作/斧名田マニマニ 漫画/坂本あきら コンテ/半次 キャラクター原案/荒野 おすすめ漫画

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どこの師団が一番強かったか。 どこの師団が最弱か。 みんな郷土を代表して語れ。 5 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 それらは追々。 彼らは貧しい補給の中で東北人らしい粘り強さがあったとされている。 でも、ガダルカナルでは負けたけどね。 最弱と言われているのは京都第9連隊が所属していた第16師団と言われている。 (おれが言ったんじゃない) 第9連隊は通称「お公家さん部隊」。 「またも負けたか第9連隊」とも言われた。 レイテで全滅。 師団長も戦死。 師団長が戦死した師団は太平洋の激戦でも稀。 東北健児で編成されたのは第2師団だ。 タッチミスだよん。 ガダルカナルの第3次攻撃で2師が負けたとき、 兵団長の那須弓夫少将が戦死したんだけど、凄い名前だ。 米軍を甘く見すぎて一晩で全滅。 これが陸軍が米軍に負けた最初の戦闘だった。 以降、日本軍は一度も米軍に勝っていない。 15 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 司令官として予定された時間に予定された空域を飛ぶのはあまりに無謀。 日本軍がいかに官僚的だったがわかる。 戦艦よりも石油タンク、クレーン、工場を狙うべきだったのに。 潜水艦も大物戦艦狙い。 陸海とも補給の大切さをわかっていなかった。 田中新一は東条を風呂場で殴ったとか殴らなかったとか。 東条を殴ったところでない袖は振れないのにな。 と、言うか遡ればきりが無いですね : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 今度酒保でアンパンとサイダーをおごろう。 24 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 彼は満州に理想の国(地域)を作ろうとした。 要するに軍事とお国自慢の融合だよ。 ここの住民は彼を見習うべきww 26 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 明治大正のころは北海道の人口が少なくて北海道だけでは兵員がまかなえず、 東北関東からも徴募した。 日露戦争では203高地の攻略戦に参加したが、その後は目立った戦績はない。 余談だが一木支隊がガダルカナルで全滅した直後、 旭川の駐屯地に行進して兵営に入る兵隊の一団が目撃された。 衛兵は敬礼で迎えたが、いつの間にか消えてしまったと言う。 兵隊たちは一木支隊が霊魂となって帰還したと噂されて 今でも旭川の自衛隊駐屯地で目撃されることがあるらしい。 手痛い敗北を喫したのは一木支隊だけで、 師団の基幹は北海道防衛のために国内に留まった。 そのため損害軽微。 一番悲惨な師団はニューギニアに投入された第20師団かな。 師団総員約25500人のうち終戦で帰還したのはわずか785人だった。 31 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 悲惨な第20師団の編成地は朝鮮。 でも、兵隊は朝鮮人じゃなくて内地人、主に東北人で編成された。 つーか、北関東の高崎宇都宮水戸は全部強くて激戦に投入された。 インパール作戦でも中核を担っていたぞ。 兵員の質もすべて甲種合格者ばかりだったから兵自体が強かった。 常設師団一個で大戦中に動員された師団の三個分の兵力差が あったと言われたようだ。 まだ、戦争の初期だったから英軍は植民地兵で装備も貧弱だった。 チャリンコの移動で機動性が増したなんてのは トラック飛行機主体の当時では恥ずかしい。 その後の英軍は機動性を生かしアドミンボックスなどの新戦法で 旧態依然の日本軍を打ち負かした。 38式かついで銃剣突撃白兵戦の日本軍じゃ兵が強くても勝てる訳がない。 広島の第5師団の最後の師団長は終戦後兵の復員のめどがたつと自決した。 責任も取らずに逃げ回った師団長が多い中でこの態度は立派だと思うよ。 兵隊は全国から選ばれた精鋭ぞろい。 やはり25軍に属してマレー戦にも参加した。 近衛に入れば家族の誉れ。 その割には激戦地に配属されてないな。 近衛が玉砕しちゃ全軍の士気にかかわるって配慮があったのかな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 8は鉄火場から来た奴も多そうだしな。 重機関銃一丁運ぶのに馬は予備を含めて5頭。 弾薬は540発入り箱を4箱が馬一頭分の運搬量。 でも、老馬も多く定量どおり運べる馬は少なかった。 北の師団が強く、都会より田舎の師団が強いと言われたのは 屈強な馬を調達しやすかったということと関係あるのかな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 可哀想だな。 その増援部隊が16師団と聞いたとき1師団の兵はがっかりしたという。 「お公家さんに何ができるか」ってね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 第13は高田で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第15は豊橋で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第17は岡山で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第18は久留米で編成後、軍縮で廃止。 久留米には小倉師団が移転。 軍縮は言わずとしれた宇垣軍縮。 また、日本にスキーを伝えたレルヒ少佐が訪れたのは高田師団。 最初は北海道?? 北海道で記念像見たけど昔はストックが1本だったみたいだね。 無論郷土の偉人として自慢する分には何の問題も無いとは思う。 54 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 乃木は作戦指導におてはむしろ無能で長州閥の軍人として薩摩の東郷に対比される 人物として祭り上げられたにすぎない。 陸軍もやはり薩摩の軍人の活躍が目立った。 第1軍司令官で奉天攻略を成功させた黒木為楨大将は鹿児島の加治屋町出身で 東郷とは幼馴染だ。 二人は子供の頃から戦争ごっこで遊んだ仲だったという。 加治屋町には他に大山巌中将がいて鹿児島の小さな町から東郷、黒木、大山と 同じ時期に3人の将軍を出した。 思えばすごい町だな。 軍縮以前は20個師団体制で上ににあげた18個師団のほかに朝鮮で編成された 2個師団があったけどこれも省略した。 師団の編成は大体昭和初年の頃のものと思ってくれ。 日本陸軍のは今度調べてみるよ。 航空戦になってから弾道方程式の様相が変わってそうだし。 こちらは戦車の弾道方程式 物理の世界だね。 61 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 東京の第1連隊に続く若い番号の連隊だ。 この連隊は米軍が4日で占領予定だったペリリュ-島で70日間持ちこたえた後に玉砕した。 33師団隷下の隷下の213連隊はインパール作戦に参加し、 インパールまで20キロと迫った部隊だったが補給が続かず戦闘死より餓死者を 多く出して撤退した部隊。 その他に目立ったところではニューギニアで壊滅した41師団隷下の237連隊。 同じくニューギニアに投入される予定だったが海上輸送中に空爆を受けて、 上陸前に兵員装備を半減させた51師団隷下の102連隊がある。 こうしてみると悲劇的な部隊ばかりだけど太平洋戦が悲劇だったので 悲惨だったのは水戸の連隊ばかりじゃないよ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ありがとうございます。 そこいらをへこへこ歩いている爺様が、ニューギニアとかインパールとかきつーい所で戦っていたと思いますと感慨深いものかあります。 但し、士官は士官学校を出ると全国に赴任するので出身地は関係ない。 65 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ただ、日本のトップにいながら日本の現実がわかってなかったのは致命的だろ。 サイパンでは本気で資材を送り防衛も完璧だから 絶対に勝つと言っておきながらあっさり負けた。 大局的な戦略眼に欠けるところがあると思う。 そういう経緯で移転したのかもしれない。 また、自衛隊の連隊とは敗戦時に陸軍は解体してチャラになったので 連隊番号が同じでも直接の関係はない。 朝鮮戦争当時は参謀長、師団長クラスから下士官まで旧軍出身者で 号令も日本語だったそうな。 だから今でも韓国軍の内務班は旧陸軍的な教育がなされているらしい。 旧軍の伝統を色濃く残しているのは自衛隊よりむしろ韓国軍だったりして。 当時甲種合格は名誉とされていた。 当時の岩手県の山奥の小学生は、弁当を数個持って行くものがいた。 通学に何時間かけて歩くから、途中で腹が減るのだ。 脅威的な体力を持っていたのは言うまでもない。 東北に多かったこういった環境が強い兵隊を生む土壌だったのでしょう。 そういや有名な韓国軍のある将軍は未だに生きてるよ。 名前忘れたが。 雑誌に載ってたが日本語ペラペラだったらしい。 朝鮮戦争当時の韓国軍第1師団長から第1軍団長になった人。 3年位前に「若き将軍の朝鮮戦争」という本を日本でも出版した。 1920年生まれだから朝鮮戦争当時は35歳か。 これより上の世代だと朝鮮人は日本軍の士官学校に入るのは難しかったから この若さで中将にまでなれたんだろうな。 戦争物好きな人には必読だと思う。 カタカナ多いけど昔風で味があってよろしい。 大和が沈んで、他の船で助かろうとする仲間の手を刀で切った話とか出てくる。 まあこれは仕方無かったのだろうね。 通常、軍参謀は中将だ。 大尉とは失礼だぞ。 ガダルカナルは第2連隊じゃなくて第2師団だろ。 東北健児の第2師団はガダルカナルの第3次攻撃に参加して大損害を受けた。 師団は3個連隊編成だが2人の連隊長が戦死。 師団のナンバー3である兵団長までもが戦死した。 その後、ジャングルに入ってゲリラ化したが そのときに餓死で死んだ兵も多かった。 最終的には大本営の撤退作戦が成功して脱出できたが、 損耗率は80パーセントを超える全滅状態。 ガダルカナルから帰った兵士は敗戦を隠すために口外禁止の上 再度激戦地に行かされた。 叔父さんも相当辛い目に遭っていると思うよ。 それ未読だ。 新東宝で作られた映画は見たことあるけどね。 歴史少年だ。 すべての日本歴史に精通することを目指している。 すべての日本歴史に精通することを目指している。 そうか。 たしかに転進という発表だったような うちの爺さんは広島から原爆投下の2日前に門司へ行かされたらしい 幸運すぎる 88 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 おれにもわからん。 うちの伯父さんは戦争で片目失って恩給もらっている。 無職なのに三階建の家建てた。 おれにもわからん。 特に最初の2巻は。 歴史でもその出来事にに直面した人が生きているうちは研究対象とは なりえないし本当の客観的な「歴史」とはならないような気がする。 何百年前の出来事なら例えば、信長はミクロで見れば単なる虐殺者だが マクロで見れば革命児ともいえる。 歴史にイデオロギー色がなくなるのには少なくても100年は待つ必要がある。 ごめん未読だよ。 世の中には読むべき本が多すぎる。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 明治政府が富国強兵をはじめたとき。 もっと言えば19世紀半ばに維新が起きたとき。 16世紀に江戸幕府が鎖国をはじめて外国情報を遮断したとき。 ヨーロッパで大航海時代に覇権争いが生じたとき。 これらの線がすべてつながって太平洋戦争に至った。 そんな大きな括りじゃなく小さな括りだと政治的には同一の物。 戦争の仕方、兵器については別物だろうな。 せめて「忘れられた日本人」くらいは読まないとな。 日本の歴史学はランケの歴史学を範としているから 本来は客観的な立場にないといかんのだがな。 義満の「日本国王源」の署名についても将軍の権力を示す客観的な事実として 受け止めるべきだし、朝鮮出兵も事の良し悪しは別にして当時の日本の国力と 国内事情を知る手がかりとして見るべきだろう。 戦略論はクラウゼヴィッツだ。 陸軍は孫子もクラウゼヴィッツも忘れて戦っていた。 勝てるわけねえよ。 112 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 114 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 懲役ものだね。 恩賜の軍刀返します。 だから日露戦争で連戦連勝しても限界点を知っていたので講和をした。 ところがその後の世代は自分の手で国作りをしていない。 無敵関東軍と持てはやされて中国で連戦連勝しても いつかは限界が来るということがわかってなかった。 自分の身の丈に合ったところでやめておけば歴史は変わったかもね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 赤鬼部隊。 強襲師団。 永く日本最強と呼ばれた。 第2師団(仙台)夜襲の勇兵団。 世界戦史に名高い。 満州事変ガダルカナルで活躍。 第6師団と共に最強と呼ばれた。 第18師団(久留米)太平洋戦争期ではこれが最強か。 音に聞こえし菊兵団。 第56師団(久留米)チャーチル蒋介石から世界最強と絶賛。 一兵残らず玉砕する 凄まじさ。 第14師団(宇都宮)オレンジビーチ。 海がアメリカ兵の血でオレンジに染まったという・・。 こればっかりは過ぎたことなんで..... 師団長はあの牟田口のあとは大本営から左遷された田中新一。 高級参謀はあの辻政信だ。 牟田口は補給無視のジンギスカン戦法。 田中、辻コンビは優位な敵にたいしては猪突猛進するけど、 新戦法を用いられるととたんに手も足も出なくなる。 陸軍としては優秀な人材として派遣したんだろうけどね。 兵隊の質が違うんだろうね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 菊は最強との評価は当時からあったみたいだし勇や安なんかも ビルマ戦線では菊ほどの戦い振りをすることは出来なかった。 ミートキーナでの玉砕戦のような戦いは余程の強兵でないと為しえない。 125 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 硫黄島の第109師団のように三桁の師団でも 指揮官が優秀なら奮戦できるってことだ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 東北にある自衛隊の6・9師団は今だに隊員のレベルが高いらしい。 同じく出身者も。 東北人って真面目なんだろうね。 武人の誇りって奴か。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 指揮官が駄目なのは世界的に有名。 逆に軍曹クラス以下が優秀だった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 警察は鹿児島も。 多分職が無いのと昔からの伝統が合わさってるのでしょう。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 作戦も前例踏襲主義で新しい戦法は取らない。 新しい戦法で失敗すると責任を取らされると思っている。 それで攻撃はいつも迂回して銃剣突撃一本槍。 アメリカ軍にワンパターンがばれて待ち伏せされても戦法は変えない。 それと日本軍がついに自動小銃を正式採用しなかったのは 自動小銃だと弾を撃ちすぎて予算が追いつかないという官僚的な考えが あったという説もある。 熊本鎮台から続く伝統ある師団だからだ。 西南、日清、日露、満州事変と日本の戦争のすべてに主力として参加して負け知らず。 太平洋じゃ負け続けたけどね。 135 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 136 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 138 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 これも面白いからぜひ読んでみてくれ。 昔少年チャンピオンで連載されていた。 今の若者は知らないと思うが。 この漫画は兵隊やくざ+成らず者部隊がモデルとなっている。 少年誌にはもったい無い位に深い背景がある。 主人公は関西の少年矯正院出身、太平洋戦争ではコレヒドール攻略線に参加、戦後の最終章では舞台が渋谷に移り 東急VS闇市の戦いが始まるのだ。 ちなみに兵隊やくざとは、本当に日本軍に徴兵された実在した新宿の愚連隊がモデル。 ついでに成らず者部隊も実在したらしい。 荒くれ者の懲役等出身者だけをあつめて部隊を 編成したが、統制がとれずボロ負けしたらしいが。 142 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 インパールは仙台甲府宇都宮の師団。 久留米の精鋭菊と龍をインパールに投入しておけば勝てたとの評価もある。 国会図書館に保存されていた牟田口のインタビューテープが公開されたけど、 言い訳だらけだったらしい。 宇都宮の弓がインパールまであと10キロのところに迫ったけど、 これは英軍の戦略的撤退に乗せられただけのこと。 補給のない兵団が敵のホームグランドに誘いこまれてぼこぼこにされたってのが実情だ。 大体、飛行機を駆使した立体的な補給をする敵に対して 山羊に物資を運ばせて食料がなくなったら その山羊を食うという前時代的な補給の発想をする司令部が上にいたんじゃ、 兵がどんなに精鋭でも勝ってこない。 147 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 宇都宮と東北何かそうだろ。 出身は人吉の山のほうだったけど。 満州事変のときは、砲身を背中に担いで満州の山野を歩き回ったというが・・・。 確かに明治38年生まれにしてはデカイ人だったけど、今でも信じられん。 母方の親戚に、五家荘という平家の落人で有名な相当な山奥の出身だったけど、 その1人が近衛師団にいたらしい。 左座家といって、菅原道真の子孫を名乗って いるようだが、これも俄かに信じられない話です。 先日再放送した「映像の世紀20世紀」のヤルタ会談を見ると、 スターリンとともに、ルーズベルトの馬鹿野郎と激しく憤った。 157 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 当然ナチスより多い。 日本も当然共産化のターゲットだった。 横須賀人はもっと自慢しろ。 これは脅威的だ。 他にも自衛隊には未だに旧軍から使ってる施設が多い。 創生期にはM1小銃とともに日本軍の99式小銃も使っていた。 海軍も夜襲に成功したけど狙ったのは巡洋艦などの戦闘艦ばかり。 輸送艦を沈めておけばアメリカ軍は補給がなくなって日本軍に十分勝機はあった。 ちなみにガダルカナルの主任参謀は辻政信。 石川県出身だ。 お粗末な作戦で沢山の同胞を殺しておきながら戦後は石川県選出の国会議員。 煽るつもりはないけど石川県民の民度を疑ってしまう。 161 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 共産勢力に対抗する組織作りが目的だったらしい。 噂によると潜入すぐにゲリラに捕まって殺されたようだ。 ところが17軍司令部が上陸してみると米軍の強さは見ると聞くでは大違い。 なめてかかっていた司令部は途端に正攻法の自信をなくした。 それで急遽迂回戦法に変わったが、 その迂回路は第2次攻撃で失敗したコースとほぼ同じ。 これじゃ兵がいくら強くても勝ってこない。 再度の攻撃のためにガ島に派遣されたが、途中で輸送船を沈められて 身一つで上陸。 戦力にならないまま飢えでぼろぼろ。 わざわざ飢えるために上陸したようなもんだ。 168 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 前その話NHKでもやってた。 ちなみにおらは東北人なので第二師団びいきです。 176 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 とどちらも強い。 しかし、 演習が終わったあと、九州の師団はさっさと帰ってしまったが、 東北の師団は皆で後かたづけをしている」 やっぱり県民性なんでしょうか。 律儀というか。 スマソ : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 だすけ「姫路第三十九聯隊史」でも読んでくなんしょ。 181 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 182 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 こんな比類のない戦歴をけがすような事があっては、申訳ないことになる。 南寧攻防戦は「40年に及ぶ長い軍人生活の中で最も苦痛の激戦だった。 」 (激突すること40日草根をかじり、弾薬欠乏で石を投げ、竹槍を用い、 敵の死体から武器を求め、血で血を洗う限界を超えた死闘を展開した。 ) 戦後広島を訪れた同氏は広島の青年たちは、純朴さと文化度の平衡がとれ つまり「気がきいていてズルくさい」といえよう。 南寧のように一個師団でニ十四個師団を相手にしたのは 支那事変で始めてのことで、 今更ながら「広島人のねばり強さと闘志に感じ入った」と語られた。 鉄道連隊は特殊技能集団だから独立連隊だろ。 新京成の路線が曲がりくねっているのは鉄道連隊の演習線を使ったからなんだよね。 最近知ったがノモンハンは日本の惨敗ではなくてむしろ ソ連軍の方が戦死者が多かったそうだ。 ノモンハンの主力師団は熊本の23師団。 さすがに九州師団で兵は強いけど指揮官はバカ。 小松原は許しがたい。 中国軍の武器は人海戦術だから日本の一個師団で中国の十個師団を相手に することはよくあったらしいね。 あのアメリカ軍ですら朝鮮で北朝鮮を追い詰めた時、 目の前にいきなり日本軍の二十個師団に相当する30万の中国軍が現れて あっという間に戦線は崩壊して釜山まで押し戻されたくらいだからな。 俗に言う、敵の弾よりも兵が多ければ必ず勝てるってことだ。 187 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 問題はこれを米軍を相手にするときもこの比率で作戦を立ててしまったこと。 188 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ただの素朴な疑問であるが 189 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 海大学長、第二南遣艦隊司令長官、第二遣支艦隊司令長官、第一艦隊司令長官 第四艦隊司令長官、第五艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官歴任の高須四郎。 191 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 聞いた事のない名前で今は名前自体忘れてしまったが 恐らく地元と関係の深い海軍少将なのだろう。 海軍に関しては10年程前に「歴史と旅」の別冊として出た 「帝国海軍将軍総覧」という本を持っていたがどこかに埋もれてしまった。 持ってる奴いるかな? 海軍は真珠湾からマリアナまで語り尽くされている感があるしなあ。 お前も郷土の英雄山本五十六元帥について語ってもいいぞ。 新潟のTVも取材にきたらしい。 一昨年だったかな?いつかは忘れたが最近の話だ。 数々の極悪違法行為を反省することなく、今日も掲示板を荒らし続けている。 戦後ソ連国防相となったジェーコフ軍団長は、 将軍の過去最も苦しい戦闘はどこかの質問にノモンハンと言った。 ソ蒙地上軍は激戦中でも日本軍の遺体を埋め、草花まで供するなど余力を見せた。 小松原師団長は、ソ連通だったそうだが、 首脳部や幕僚間ではソ連軽視が大半を占めていたらしい。 198 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 大戦初期も装備もままならない米英の植民地軍相手だったから バターンでもマレーでも勝ってますますのぼせ上がってしまった。 それで軍首脳が戦争を舐めた。 確かに個々の兵は粘りがあって命令にも従順だが 首脳が無能すぎた。 結局日本軍は身体は健康だがおつむが弱い大男のような軍隊になってしまった。 そういえば、今日は2. 26だが反乱軍の将校たちもおつむは弱いような…。 大局観がなくて行き当たりばったりなんだよな。 新人物往来社刊だけどもう絶版かな? 203 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 弘前・姫路・久留米・豊橋ともに県庁を取られて地方が沈滞していたのを陸軍師団が救った。 また弘前・姫路には非県庁所在地には珍しく旧制高校も置かれる。 第39連隊は第10師団に属して、日露戦争では血染めの戦旗の伝説を残した(歴史博物館に寄贈)。 その後青島攻略戦・済南事件・満州事変・徐州攻略戦・フィリピン防衛戦に参加した。 海軍版の発売も近いかも。 このスレの海軍版として故郷の旧国名、山、川などの名を関した艦船自慢の スレも立てたいのだが艦船の編成や戦歴の史料が手元にないのでできなかった。 有名どころならわかるんだけどね。 「丸」の愛読者でスレ立ててくれる人いないかな? そういえば、大和級の4番艦は空母に改造して「尾張」か「土佐」 という名にする予定だったと聞いた記憶があるのだが詳しい人がいたら教えて。 もしかしたら「尾張」は勘違いかもしれない。 「おわり」じゃ縁起悪いもんな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 13師団は野戦師団(2万5千人)で、39師団は警備師団(1万4千人) 宜昌は旅団長率いる2連隊(5大隊)で守備していた。 これを広島231連隊は 連隊長指揮の2大隊と2中隊で守備し、兵力は2分の1以下に 兵力比も1中隊に対し敵1個師団、そして圧倒的な敵の火力下 1人で数10人を相手に戦う死闘を展開することになった。 攻撃なら、1人の勇士がいれば他の者はそれに従がって進むからまだいい。 防御戦は、兵1人1人の戦闘能力が勝敗を左右する。 いちいち細かい命令指示をまたずに、自信をもって戦闘行動の出来る能力が要求され 各個人が鍛えられた戦士でなければ、そこが弱点となって敵に抜かれる心配がある。 そして素質、広島部隊の資質である機敏さを発揮することになる。 それは海軍も同じ。 敵の自動小銃に対してこちらは日露以来の38式。 スプレーを噴射したかのような濃密な弾幕への白兵突撃に黙々と従い、 食料がなくとも自活しながら敵の攻撃を受けて一歩も退かない粘り。 対して将官たちは猪突猛進するのみ。 教科書どうりの作戦で敵にあざ笑われているのに作戦を変えない。 取った土地は寸土といえど敵には渡さないという馬鹿げた方針のために 戦略的撤退という発想もなく負ければそれを隠すだけに汲々として 負けた原因を探り次回の作戦にフィールドバックするということもない。 こんなバカな指揮官が上にいたんじゃ兵が哀れすぎる。 」 と言ったということを聞いて喜んだ兵隊は宜昌に到着、警備交代のとき 「あとどのくらい来るのか」「これだけで守るつもりか。 強いんだなあ」と 親切、同情、冷やかし笑いながら軽蔑するものもいたという。 昭和17年暮、宜西地区左翼の中島高地が攻撃された。 この陣地は13師団時代敵に 占領された経験のある陣地で、僅か40名で千人の敵を撃退した。 守備兵は銃弾を撃ちつくし、手榴弾を投げつくし、ついにはビール瓶、土塊、石を投げ (ガラスの破片は匍匐する肌を切り、土塊、石は手榴弾と思い込んで逃げ回り、 それが散ると時として目をやられる。 )夜の闇を味方とし、原始的な創案を役立て 陣地寸前で敵を撃滅した。 守備兵たちは爆撃砲で鼓膜をやられ、しばしば幻影に襲われながらも 奮戦を続け、雲霞のように攻め寄せる敵を陣地寸前で撃滅した。 昭和19年7月、西陵山地区羽黒山陣地41名守備に、飛行機の銃撃並びに火砲7千発の 砲撃により、陣地はほとんど破壊され畑のように変わった。 手段を尽くし 陣地を補修し反復攻撃を30数回撃退、敵4コ営に壊滅的打撃を与えた。 40対10,000の圧倒的優勢な敵も猛攻撃を挫折した。 両守備隊は、第34軍司令官佐野中将より連続して感状を授与された。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 日本てのは後進国なの。 今の小泉の姿勢見てれば明らかだろ。 しかしなんだね。 景気が悪くなるとこういうナショナリズム全開バカが出てきて本当にやだねぇ。 こんなことよりテメーの働き口や年金の心配した方が賢明ってもんじゃねーの? 212 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 その上、バカ右翼に暖かいご忠告まで。 有難くって涙が出る。 ところでルーズベルトetc. とはマクロな見方なんだが 是非とも頭の良いあなたのミクロから見た 日本軍についてのご意見が拝聴したいなあ。 214 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 一月中旬の先遣隊から、 陸自部隊の到着は通算四回目。 隊員数は最多で、初めて女性の隊員十一人が部隊に加わった。 女性自衛官の海外派遣は、東ティモール国連平和維持活動(PKO)に続き二例目。 インパールのビルマ方面軍(第15軍だっけかな?)の参謀長をやったが あまりに無能だったので「ムノ村」とあだ名された。 33集団軍司令官張自忠上将を討ち取り軍感状を受け、 (事変勃発以来、高級指揮官の戦没は初めてだった。 ) 敵の宜昌防備中核、当陽主陣地を激戦の末これを抜き (それ故39師団主力も,他師団も大した難なく進攻できた。 ) 快進撃をもって宜昌東側に殺到、同地の占領を軍命令により 1日遅れの仙台13師団に譲った。 (13師団の行動距離も、39師団の80%にも達せず、 しかもほとんど敵影のない平野部が大半だった。 ) 最終時期の戦功は、231連隊の当陽敵陣地の攻略にあった。 張上将を葬る大殊勲は、各新聞社とも3、6、13師団には記者を送ったが、 5師団の分家とはいえ、警備師団の39師団は目標外、ところが蓋をあけると、 前記強豪師団に劣らぬ強者振りを発揮、各社とも最大の特種を逃がした。 その専田参謀が検死役にまわり「間違いない張君だ」 参謀長の、悲痛とも思える一言だった。 周囲に居合わせた者は一斉に「おめでとう」の声を発した。 だがつぎには悲運にも散って逝った武将の最期に敬虔な祈りと黙祷を捧げた。 一説によると将軍の夫人は戦死の報を聞き、夫の跡を追い絶食自害したという。 もしこれが事実なら、古来の日本婦道に比すべき姿であろう。 そして夜半すぎ敵が 猛烈な夜襲をかけて、その混乱に乗じて張将軍の遺体を持ち去った。 ところが第11軍は「張自忠の死体は飛行機で漢口まで送れ」といって来た。 自動車も運行至難な地域に、どこへ離着陸させるつもりか。 結局参謀長の手帳ぐらいを、飛行機で吊り送ることにした。 230 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 そのうち投下された通信筒による軍命令で 現在地へ停止することに「宜昌は仙台13師団が独占する。 」13師団は冬期作戦で 散々苦杯をなめた、不首尾を名誉挽回させるという軍の配慮か。 39師団最大の悲劇白河の渡河で山口233は三百数十名の戦死者を出した程なのに 仙台13に手柄をたてさせてやりたいから広島39はそのまま停止とは。 ある一兵士は「停止命令が下り、しばらくして反転命令が来た。 今敵に時を与えるのは反撃により多くの友軍の血が流されると言う 大事な時に一体何を考えているのであろうか。 戦後その真相を知った後、何とも言いようのない憤りを憶えた。 戦争を弄んでいるのだ。 戦争ごっこではない。 多くの血が流されたことを 知っているのであろうか。 」と言っている。 232 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 さて、我愛知県には山頂より三河湾を一望に見渡すことにできる三ヶ根山という 風光明媚な山がある。 ここは元々はドライブウェーと展望台の観光施設として開発 されたのだが、いつのころか旧陸海軍の慰霊碑が集まり始め、今では慰霊のメッカ となっている。 全国の部隊、数々の慰霊碑が立ち並ぶ様相はまさに霊場の雰囲気で ある。 我国の近代史、苦悩の歴史に共感し思いをはせるならば、1度来て見てはいかがな? 更に山頂付近には東京裁判においてA級戦犯として刑死された、東條、広田、松井、 土肥原、板垣、木村、武藤、の七氏が分骨された「殉国七氏之墓」があるが、 ここも巨大な石碑が建立され荘厳な雰囲気である。 連隊史や各中隊史(記)、 子供のころ老人達から聞いた話も参考になった。 第11軍のことも各戦記によるが、福山連隊史では許せないのは 岡村寧次の態度と名指してある。 旧軍の組織、資料、戦記をだらだらと書き写して いるだけ、しかも得意げに、さらにこれを博学だなんていってしまうやつがいるから ばかばかしい。 ときおり歴史に対する意見もあるが、いっていることが幼稚で過去の 戦争に対する自己の歴史観を構築しているとはとうてい思えない。 こんな輩が常駐支配しているスレはいらない。 この板はお国自慢の板、邪魔だ。 消え去れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 239 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 まあ、あんたが考えることはあんたの脳みその自由じゃ。 掛替えのない脳みそののう。 じゃが最初の文に「こいつら」たあ 行儀を知らん昭和人よのう。 「歴史」という学問も科学であるからには個人の感情は極力排さなければならない。 日本の歴史学はランケの考えに基づいて構築されている。 だからこそ大学で歴史を学ぶ際にはランケの歴史学が必修とされている。 だが、悲しいかな人間は自分のバックボーンというものに少なからず影響を受ける。 過去、皇国史観、家永史観が時代のバックボーンの中で強い影響力を持ってきたのはそのためだ。 もちろん、おれも過去歴史を学んだ者だがバックボーンの影響力から逃れられない。 歴史という光は一筋だがそれが時流というガラスのプリズムを通す時、 様々な色をなす。 旧日本軍は残虐無比だという色もあれば、貧弱な装備闘った英雄だという色もある。 君がどの色に最も反応するかは知らないが少なくともここで語り合っている人たちは 後者の色に近いし、おれもそれを望んでこのスレを立てた。 おれのレスを見てもらえばわかるがおれは必ずしも 旧軍を全面的に賛美しているわけではない。 将官級に厳しく、一般の兵に甘く評価している。 旧軍の将官は帝大より陸士陸大の方が出世できそうだと入隊し、 試験と年功序列によって登りつめた現代の官僚のようなものだと思っている。 だから作戦は稚拙で、負けても責任を取らない。 対して一般の兵は稚拙な作戦と装備補給の中で牛馬のごとくこき使われ、 人間業とは思えない精神力を発揮して闘い死んでいった。 その兵士を支えたのは家族に対する誇りであり郷土に対する誇りではないのか? ここではそういう郷土のために死んだ兵士の偉業を 現在郷土に住む者が堂々と自慢し合う場だ。 そして自分の父祖を誇りに思え。 それがおれのここでの主張だ。 最後におれは軍事オタではない。 どちっかつーと鉄オタだ。 わかった、それがスレッドの最初にあったならけちをつける気持ちは 毛頭なかった。 すまん、その歴史観に対して敬意を表しなおかつ賛同する。 ただ若干の相違をあえていうならば、軍部(幹部)悪玉、兵善玉という見方である。 俺はそうは思わない。 なぜならば米国の対日占領政策に迎合しているように とれるからである。 東條は、東京裁判で他の被告が沈黙する中証言台にたち 必死に我国の立場を訴えたではないか。 宇垣は中将のバッチを外し自ら特攻機に 搭乗したではないか。 大西も阿南も軍人として立派であったではないか。 確かに作戦計画には失敗や錯誤もあった。 インパール作戦など兵は誠に可哀相 であった。 しかし我陸海将兵は総力戦を国のため、郷土の為、家族の為に戦った のである。 将も兵も一緒である。 失敗は未来の国防に役立てればいい。 日清も日露も同様である。 郷土のために死んだ兵士の偉業を讃える。 そして自分の父祖を誇りに思え、このくだり については誠に同感相通じるものである。 最後に実は俺も近代史に興味をもっているが、どっちかというと鉄ヲタである。 ガンガレ!! 相変わらず行儀を知らん。 われは軽ういいよるが。 昭和人の歴史観とは特定の思想を持って、その思想の固定観念で判断するのか しかも巷でよく聞く反米保守の意見を述べ、とうてい自己の歴史観とはいえぬ 全く狂信的共産主義者とたいして変わらん。 その固定観念で先入観を持ち、 偏見を持ち、希望的観測を持ち最終的に判断を誤る。 国の為とか国防とか理屈を言うが、敵と闘う時「お国の為とか相手が憎いとか 考えなかった、ただ生存本能と負けてはならぬと気持ちだけだ」と語った 兵士が居るがそもそも闘いとは負けてはならぬ意地があるのみで、 それは思想、哲学の論理でなく生物として男の感情ではないか。 それ故子供のころ戦争の話を聞くのが楽しかった。 ちなみにわしの歴史観などない、風土、民俗学の方が好きである。 それ故ランケの西洋的な近代歴史学の見方よりも、イブン=ハルドゥーンの 歴史序説や司馬遷の史記など風土的考察があって面白い。 人間ならどんな地位にあろうともどんな組織に属していようと 一定の人間が集まれば悪人と善人の比率は同じになる。 従って、将軍たちにも立派な人物もいれば兵にも悪辣な奴はいる。 ただ、将官級を厳しく見るのは責任の度合いが違うからだ。 彼らは兵士の生殺与奪の権を握っていた、 だから責任もそれだけ大きいと言う訳だ。 たとえ、戦犯にならなくてもいやしくも閣下と呼ばれた人間は 全員腹を切ってもよかったと思っているくらいだ。 それと腹を切る時は一人で死んでほしかったね。 宇垣は搭乗機の乗員を道連れにして死んだ。 あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった。 おれはあれで宇垣の業績はすべて帳消しでになって やっぱり他と同じく無責任な将軍という見方をしている。 日本の歴史学がランケ史学を支持しているは建前でね。 戦後、公平中立な立場から歴史を見るという理想から出てきたものだ。 だが、現実は理想とは程遠いのは知っての通りだ。 ここでは歴史観なんて小難しい物は抜きにして 郷土の英雄を褒め称えたい。 中国韓国人は日本の軍人を悪魔のような極悪人のごとく思っている。 日本の左翼思想に影響を受けた層もまた同じ。 おれらが褒めなきゃ誰が褒める。 本当に道連れだったのか?喜んで同乗した可能性は? >あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった 俗説かもしれんが、生き残って帰って来た奴はずる賢い卑怯者だったケースも多かったらしい。 真面目で真剣な奴ほど死んでいる可能性もある。 主張にやや左翼思想が入ってる気がするなあ。 人命尊重とか。 だが、考えてみてほしい。 彼らは20歳をやっと超えたかという年齢だった。 尊敬する宇垣が敗戦の責任をとる為と称して最後の特攻に行くと言えば、 感激して同行すると言うのは明らかだ。 そのことに宇垣が気付かないはずがない。 だからこそ宇垣は一人で死んでほしかった。 あまり知られていないことだが終戦の翌日、東京秋川で一家心中があった。 死んだのは当時立川の参謀だった某少将。 彼はフィリピンで陸軍初の特攻を行った第四航空軍の参謀だった。 彼は若者を特攻に行かせた責任を取って、 そして忌まわしい自分の血を後世に残さないために 両親と妻娘を道連れにして死んだ。 当時彼は狂っていたという説もある。 だが、責任の重さというのは人を狂わせるほど大きい。 他人の子供を道連れにした宇垣は有名だが 自分の子供を道連れにした少将の名はほとんど知られていない。 某少将の名は隈部正美。 記憶の片隅に留めておいてほしい。 ただ、日本が好き。 家族が大事と思う思想でもなんでもない 素朴な考えを持っている。 人間で一番辛い死に方の一つは飢え死にだろ。 戦場では多くの兵士が食うものを食えずに死んだ。 だが、将官級で飢えて死んだという奴をおれは知らない。 兵士が飢えている時に毎晩、酒飲んで、将校飯を貪り食っていたって話は聞くけどな。 闘って死ぬのはまだ許せるが もし、自分の家族がそんな状況で死んだとしたら絶対に許せない。 意見がないよりいいわな。 今日本人の多くは過去の戦争の歴史を誤った過去として断罪しているが、果たして 本当に誤りだったのか?開戦前の国際環境は?勢力図は?列強の植民地支配は? 政治力学は?このような疑問が近代史への興味を駆り立てていった動機である。 そしてその疑問に答えてくれる多くの著書に出会い賛同し、感動した。 その結果が 過去の戦争の歴史に対する共感と戦死者に対する感謝である。 これが基本。 俺の歴史観を押し売りするつもりはまったくないが、「丸」写しのレスが多く意見に 乏しかったのでついけちをつけてしまった。 すまん。 因みに今読み始めたのは遅ればせながら司馬遼の「坂の上の雲」である。 宇垣中将に粘着してしまうが「有為な若者を無駄に死なせてしまった」 という言い方はやめてくれ、彼ら若者は無責任将官の為に犬死したというのか? 実は犬死でしたと遺族にいえるか!本人はもちろん遺族も我息子は恐れ多くも 海軍中将宇垣纏の搭乗機と共に南海の空に散ったことを悲しみと共に誇りに 思っているはずである。 それがすでに亡き人への最大の供養であろう。 先の大戦では軍人、軍属、民間、多くの犠牲者がでた。 しかし犬死などひとり もおらん、皆現代日本の礎になったのだ。 そういうことにしとけ。 俺が印象に残す悲しい例は、沖縄からの疎開学童約1000名を乗せた対馬丸 雷撃沈没である。 彼らは純粋に日本を愛していた若者だからこそ 終戦の詔勅を聞いた後、生き残ったという幸運を棄てて最後の特攻に赴いたのだろう。 だからこそ、宇垣は彼らを道連れにすべきではなかった。 宇垣ほどの名文家なら希望を失った彼らの力を別の方向に向けさせるだけの 文章を残せたはずだ。 「俺は死ぬが君らは生きろ」と言えたはずだ。 それをしなかったことが宇垣の晩節を汚したと言える。 事実そのようにして自害した師団長もいる。 昭和人ならわかると思うがこれは歴史観の問題ではなくて人間観の問題だ。 死ぬ時は一人で、死なぬのなら従容として裁きを受ける。 これが戦争に負けた国の将軍のあり方だと思うのだが。 言いたい事はわかりました。 特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。 でも宇垣は垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって 事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。 官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。 言いたい事はわかりました。 特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。 でも宇垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって 事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。 官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 これまで書いた39師団も現在中国では 極悪人あつかい、将兵とも中国人との友情があったのだが。 丸写しのスレは「郷土の誇り」師団、連隊の戦歴、実績を書く人が少なく 風評で書かれたもが多かった。 それと「郷土の英雄」一将兵の視点を大切にしたいんじゃが。 今読んでおるんは歴史読本四月号日露戦争100年目の真実。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 愛知岐阜民は信長の子だからしようがない。 本土との連絡をほとんど断たれた状態でアメリカの4個師団と闘って師団は壊滅状態。 そのときあえて死地に応援に向かったのが名古屋の26師団だった。 アメリカの制空下においては兵員、物資の満足な輸送も行えず 装備兵員の半分以上を失いながら京都師団と闘った戦友の間柄だ。 ちなみにその時の16師団は約13700名がレイテに上陸し生還者は620名。 生きて故郷に帰るには宝くじに当たるほどの幸運が必要だった。 戦闘の悲惨さは1師団の兵だった大岡昇平が「レイテ戦記」や「野火」に書いている。 京都も名古屋も生死を共にした戦友。 そしてここ最近のやりとりを見ればわかるようにどこの郷土の兵もみんな英雄だ。 ここでは自慢するのはいいが、他の地方を貶すのはやめにしてもらいたいな。 つまりは臨時首都だった。 広島人はこれを自慢しろ。 米軍の原爆投下で広島人なら 身内、親類、縁者に犠牲者が居るものだが、それにしても捕虜で同じ原爆被害にあった者を、しかも集団でリンチするとは。 昔の広島人は、名を惜しみ、卑怯といわれることを恥じ死するより辛いと考えて居たそうだが、この様な外道の逆恨みをする者もあり、全く恥部であり汚点を残した。 捕虜の話となると、39師団231連隊に居た菅 すが)少佐。 のちに、ボルネオのクチン捕虜収容所張となった菅中佐と軍参謀長のやりとり 「菅、捕虜のあのざまは何だ。 仕事をしているのか」「彼らも疲れきってますので」 「菅、貴様それでも日本人か」参謀長の言は、捕虜を虐待し酷使するのが、日本人の姿となる。 古来日本の武士は情誼に厚く、昨日の敵は今日の友とした。 その一断面を考えれば冷厳とはいえ、温情の一片があった。 参謀長を睨みかえした彼は「お言葉を返して恐縮しますが、捕虜が毎日何を食べ、どれほど作業しているか閣下はご存知ですか。 捕虜も人間です。 あの骨と皮ばかりの姿を、よく見てください。 」と怒気をこめ反発の叫びを発した。 これには参謀長も返事に困り、逆に捕虜達は、作業に出るたびに特別な増配にありついた。 他にも「私は捕虜の葬式の相談に帰ったのではない。 」(昭和20年春の収容所会議の席上での発言)で、東京中枢部の関係者を威圧沈黙させた。 戦後米国の女流作家アグネス・キース夫人の「三人は帰った」でベストセラーになり、映画化「戦場に架ける橋」(菅中佐には早川雪舟が扮した。 舞台がタイ方面になり 実際とはちがうが。 )、数々の雑誌、新聞に報道され、多くの外国人に対して、対日感情の好転に大きく貢献した。 そして遺灰は菅大佐の死後13年ぶりに、郷里広島の 遺族の手に帰ってきた。 こういう人こそ郷土の誇りである。 第二軍総司令部は、二葉の里にあったそうだが、詳しい話はきてませんので、長くなった続きはまたします。 「生きて虜囚の辱めを受けず」。 これほど罪深い言葉はありませんね。 日露戦争までは捕虜も恥とならなかったようで。 軍が現実的思考から精神的思考に移るに従ってこの言葉が全面に出てきたようです。 実際、捕虜は収容所の建設、食料衣服の支給、警備要員の配置など 間接的に敵を苦しめる戦力なのに。 捕虜とならないために潔く散る。 一見華々しいようだが戦争は華々しさより粘りが大事なはず。 島が攻略されても玉砕などせずゲリラに徹すれば 米軍も一定の戦力を貼り付けねばならなかったのにバンザイ突撃で日本軍の抵抗は終了。 米軍は面倒な掃蕩作戦をしなくて済んだ。 日本軍がそれに気付いたのはやっと硫黄島沖縄からですでに手遅れ。 軍がいかに精神的に硬直し現実を見ていなかったということでしょう。 日清戦争当時の広島は日本初の戒厳令がでたのは、不穏な騒乱を防ぐ為とか。 各地の兵隊が広島に集まり、宿泊施設が足りず民家に宿泊した兵隊もいたとか。 大本営の広島移設は伊藤博文首相の考えだったらしい。 大本営のことも詳しくありませんが。 ただ軍都広島となり、そのお膝元の兵隊によって日本の興亡がかかった一戦を戦った 大島第九旅団)というのもめずらしい。 以後広島の師団ほど歴戦を繰り返したことは 他に類例を見ないほどと言うのも、海外出兵の港を持つ軍都のお膝元ゆえか。 262 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 国軍のなかでも共に特別な存在だと近衛を意識していた。 マレイ作戦でもジョホルバール一番乗りを広島5師団、近衛師団、久留米18師団の各第一線部隊が争い、 5師団浜田21連隊第3大隊が突入、近衛師団より数分早かったが、かなり意識している。 のちに浜田21連隊第3大隊は、宇都宮51師団の指揮下に 1個中隊程度の小兵力で)入り悲惨な戦闘をする。 あれはラッパを吹いている最中に撃たれて即死したので死後硬直で ラッパが放れなくなったという人もいますが、 真相は何であれ広島師団の誇りとなったのは確かでしょう。 でも21連隊が似合う。 浜田の兵隊さんは、5師団きっての純朴で心がけのよい部隊、誠実、地味で、 広島とカラーが違い実直な兵士が多かったそうです。 浜田連隊は、中国地方屈指の高山三瓶山と浜子の膝まで没する砂浜で鍛え、 脚は無類に強くなり、一番乗りが多く「健脚強剛の二十一」とよばれた。 広島70師団(槍)の金華山攻略で殊勲は福山103大隊で攻撃は圧巻、全員殊勲。 黙っていても部下がどんどんやった。 「広島、福山は、細かい命令指示を またずに行動する、今村将軍曰く(気がきいていてずるくさい)」に対し 浜田104大隊は、夜行軍の連続、折柄の豪雨を物ともせず突進した健脚は、 流石浜田連隊よく攻撃に間に合った。 兵隊はブツブツ不平をこぼすのが 常だが、不平不満をいわず頑張った団結力は他の三大隊(広島、福山、山口) では、失礼ながら見られまいと。 島根県人(石見)らしい。 宇都宮師団の兵士も勇敢だったという。 そして51師団から玉砕命令が下ったが、浜田の兵隊さんは 軽々しく死することなく「これから死中に活を求めるのだ」と決心した。 ところが翌日撤退命令が下りサワラケットの山々を越えた。 行軍は悲惨で路傍に餓死者が横たわり、その数二千人余り。 この行軍中、51師団の鈴木参謀が浜田部隊の際だった行動を賞賛する 事実サワラケット越えをした各部隊で軽機はおろか小銃さえ持つ者は 稀であったのに浜田部隊は小銃一丁すら損ずる者はなかった。 この場合ラッパでなく銃を放さなかったということです。 水木は境港出身だから浜田連隊でニューギニアに派遣されたのでしょう。 漫画では本人がのんびりしている分、余計に戦場の悲惨さが伝わってきます。 270 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ニユーギニアでは福山41連隊も戦った。 ポートモレスビー攻略戦で スタンレー山系頂上線に進出、所在の敵を撃破してイオリバイアを占領し 敵米豪軍の心胆を寒からしめた。 しかしガダルカナル島の方が攻撃失敗で ポートモレスビー攻略続行を不可能にして撤退、後退行動は食糧が枯渇し 難渋した。 そしてギルワで圧倒的に優勢な敵に包囲され猛反攻を受けた。 物量に物をいわせた敵の攻撃に引き替え、補給の全く続かない我軍の憐れさ、 末期には地獄の如き様相を呈し、敵は我が負傷者を収容した壕を戦車で潰し 火焔放射器で焼き殺したりし、我方も食糧は尽き果て人肉を食むまでに、 それでも一歩も退かず長きにわたりくいとめたが、他の各地区守備隊全滅が 伝えられ、ギルワ陣地も最後が迫った。 しかし撤退命令を受け脱出を 始めても悪路と食糧の欠乏で多くの犠牲者を出し、中には一個中隊が全滅し 一人の生存者もなかったとか。 6ヶ月にわたる食糧の不足と悪疫で衰亡に 陥り退却した将兵であったが、誰一人「敵は強い」とか「戦闘で負けた」と 言った者はなかった。 立派な戦歴をもつ福山41連隊が全くもったいない 使われかたをしたそうです。 ニューギニアに南海支隊(支隊といっても兵力約1万6千で一個師団ほどの戦力があった)が 初上陸した頃のニューギニアを担任する司令部はラバウルの17軍でガダルカナルと 二方面を担当していて参謀のほとんどはガダルカナルにかかりきりでニーギニアを担当する参謀は わずか二人だった。 作戦開始からニューギニアはまま子扱いされていたんだね。 その後は18軍が創設されてニューギニア専任になったけど、 戦略限界点を超えた戦場ではどうにもならないのは明らか。 面白いのは弾薬は使用しなければ減らないので よほどのことでないよ射撃はしないように皆が心得ており、 敵の襲撃があっても一発必中でなく一発で二人を倒すことを 考えたそうで、広島5師団は忻口鎮、徐州、南寧と弾薬不足の激戦を 多数経験しているので、大陸でも弾を適当に減らして討伐に出たそうです。 279 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 大岡はレイテだったけどね。 今でも存命のニューギニア生き残りの元兵士の中には 死んでも葬式はしないでくれと言う人が多いと聞いた。 自分は獣に堕ちてしまったので葬式をしてもらう資格がないのだと言う。 極限の戦場は死んでも地獄、生きても地獄ってことだ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 良スレだと思うんだけどなあ。 その後30師団の編成に入りレイテ島ハロ付近で圧倒的な敵と戦闘、 この戦闘で「その速射砲の行った戦車攻撃はレイテ島東部で行われた最も 有効な射撃であった」と米公刊戦史は伝えているそうだが、生存者も皆無の為 最後の情況もわからない。 日華事変の30才台の経験豊かな幹部の時と比べ 最後の時期は現役将校11名、連隊長が40才台の他は大,中隊長20才台 だったとあり、矢張りいかに善戦しようと、玉砕、敗北は広島県人にとっては 不名誉なことなので、郷土資料では余り多くは語られていない。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 圧倒的な敵に対して死力を尽くして戦い抜く。 負け戦とわかっていながら故郷の名誉を守るため決して逃げなかった。 彼らあってこその今日だと思います。 戦争でどのように戦ったか話を聞いたことはないのか? 婆さん、曾婆さんが銃後でどんな苦労をしたか聞いたことはないか? その苦労の末に今のお前がいる。 下らねえ書き込みする暇があれば自分の爺さん婆さんの自慢をしろ。 それがこのスレの本旨だ。 広島11連隊も上海ー南京戦に行くはずだったが、師団主力が平型関、 忻口鎮で苦戦の為師団復帰、もし杭州湾に参加していたら、 大活躍したろうし、忻口鎮の激突は中止されていただろうに。 231連隊の戦記で「今日の苛烈をきわめた激闘を戦い 抜き、負傷しながらも一命を完うし、病院まで後送しても、誰とて 非難するはずがないのに、手当てもそこそこに帰陣して居る。 廃墟の ような陣地へ、明日の命も危ない死地である。 我が死守すべきたる 陣地の責任感、自分が行くの犠牲心、身についてきた戦闘の自信で あろうか、それにもまして、激戦に耐え抜いた誇りがあり、他人に 陣地をゆだねることは、その心の誇りが許さなかったのだろうか。 」 と最終的には個人の誇りではないのでしょううか。 」 「敵を壊滅する為にどんな困難があるかも知れないが、 歯をくいしばって生きるだけ生きるのだ。 」とある。 それに広島人は、基本的に人の風下に立って服従して戦うのを嫌う。 軍上層部が理想とする九州、東北兵とカラーが違う。 敵の射撃を受けても、応射厳禁の厳命を犯し、勇ましいのが軽機を射った。 独断禁を犯してやるには相応の勇気がいる。 のち大目玉をくらったが、 結果的には敵軍の配備が明白になって、好都合だったとも言う。 確かに広島人は、軍上層部が求める兵隊らしい兵隊ではないでしょう。 こういう玉砕のパターンは一見華々しいようですが、 敵にとっては好都合。 殲滅戦の手間が省ける。 この愚かさに気付かせてくれたのが小笠原兵団の栗林中将。 もとより生還は期さず。 どうせ死ぬにしても粘って粘って一人十殺の戦法を取って 109師団(金沢)という3桁師団を率いながら硫黄島で敵と互角以上の戦いをした。 この戦法を沖縄で取り入れたのは牛島、長のコンビ。 島嶼戦を安易に考えていた米軍の戦略を根底から覆した。 米軍のコルネット、オリンピア両作戦を中止させたのは 硫黄島沖縄の英霊のお陰でしょう。 硫黄島では応射禁止をやぶって応戦したためにすり鉢山の砲台がばれてしまい、 緒戦で潰されましたけどね。 惜しむらくはもっと早くにバンザイ突撃の愚かさに 気付いていればってところでしょうか。 291 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 そして砂塵により視界をさえぎり、目を痛めるもの多発、昼夜の別なく 間断のない襲撃して来る敵の反撃に、その都度損害を出しながら撃退、しかし 我将兵は疲労、寒気、弾薬、糧食の不足に苦しみ、戦友の遺体を土嚢代わりに 積んで戦い続けた。 10月30日広島11連隊は野砲援護のもと総攻撃、 敵の気分的な弛緩時点をとらえ敵に大きな損害を与えた。 11月2日戦況は 急に活発化し、山口42連隊配属工兵のトンネル堀開が成功して敵陣地爆破、 友軍機が敵頭上へビラを撒いた。 敵は猛射し翌日には銃砲声も敵の姿も なかった。 全く悪戦、苦闘の激戦だった。 粟飯原21連隊長と西村参はともに陸大出身の同期だったが、不仲で 両者の対立は深刻なものだった。 忻口鎮の攻撃の際も1日だけ準備の 余裕を願った21連隊長の具申は冷たく却下され、翌朝から猛攻を 開始して惨状を現出した。 また時として参謀長自ら連隊を指揮する こともあり混乱した。 大場42連隊長も留守宅に投石されたり、嫌がらせの手紙がきた。 その文面に「連隊長は会津の出身だから明治維新で長州につぶされた。 最近の北支戦線で山口42連隊の死傷者が多いのは、連隊長が 恨みをはらそうと故意に兵隊を危地に進ませているからだろう」と。 この様な人間関係で兵達は激戦した。 山西軍は鈍重で精悍性に欠けるが、素朴で困苦欠乏に耐え、北国の 兵隊らしく、日本の東北兵に似ているのは風土的特徴といえる。 当時日本軍上層部は最強山西軍、最弱蒋介石の中央軍と考えて いたらしい。 閻は山西軍を温存させようとして中央軍を山西省に 入れたが、意に反し中央軍は一線に展開せず、山西軍の背後に在って 督戦軍と化してしまった。 敵も拙劣なことをした。 忻口鎮付近の戦闘で戦死1,651戦傷4,594計6,245名 参加兵力からみたら忻口鎮の死傷者は極めて高い。 山西省の陣地攻撃 と抗州湾上陸、広島師団は忙しい限りでした。 だが、九州あたりの部隊は、突入してきた。 だが、戦後、米軍の将校からすると、むしろ、つつ激して貰った方が楽だった。 撃ち殺せばいいから。 むしろ、バラバラになった大阪部隊を殲滅する方が 手間がかかった。 まあ、見方を変えればこんなもんかな。 このカキコが真実かどうか分からんが。 それもこれも島嶼戦で日本軍が玉砕し文字通り全滅してしまったので ゲリラ戦に対する備えが必要なかったからだ。 グアムの横井伍長やルパングの小野田少尉のように一人で生き残っても 組織的抵抗は不可能で逃げ回るしかなった。 そして生き残るということは横井さんが帰国したとき 「恥ずかしながら帰ってきました」と言ったように恥ずかしいことになってしまう。 号令一下、部隊が玉砕してしまうことは数多い日本軍の欠陥の一つだ。 「広島の者は手を挙げろ」初年兵達は一斉に 握りこぶしを挙げた。 全員広島出身だ。 「お前らの先輩はなっとらん。 指揮官一人敵陣に突っ込ませておいて、 誰もついて行きはしなかった。 」これは比喩だろうか? 「広島の兵隊には退却しろ。 そして後方を衝け」これは敵の本に書いてあった 言葉だそうだが、弾を食らってすぐ頭にくる県民性を物語っている。 中隊長は決心と攻撃計画を納得させるつもりで居たが、その必要はなかった。 「必死の顔をする者は一人も居ない。 熱心に聞いては居るが、笑い話が 混じる。 大した連中が揃ったものである。 これなら戦える、勝てる。 よーし見ていろ大隊長がいう半分どころか、戦死者は一割以下に喰い止めて 見せるぞ」と楽天的な県民性と言うべきでせうか。 ゙ (1 7 M) l l [ご当地].. : ; : : :. 恐らく、南京を攻略した熊本の第六師団のことを言っているんだと思うが、 その時、第六師団はどういう状態だった知っているのか? 長くなるから省くが日本人と中国人の戦争観の違いが後に南京大虐殺という 不祥事を起こしたとおれは理解している。 (あった、なかった論はキリがないから 勘弁。 でも中国人捕虜の虐殺があったことは確か) あの状況で九州以外の部隊が主力だったとしても同じような事件は起きた。 逆に問いたいがどこの地方の部隊だったら残虐行為がなかったと言えるのか? ここは各地方の部隊を公平に称えるスレであって根拠なしに貶めるスレではない。 もし、どうしても貶めたいならそれなりの根拠を書け。 議論は望むところだし、このスレも面白くなると思う。 澄田39師団長は「日露戦争では軍紀の厳正なことで世界の絶賛を博した 日本軍も日支事変では不幸にして、いまわしい事件が続発した。 少なくとも藤部隊だけは、この悪風潮から脱却して、日露戦争時代の先輩の 名をはずかしめない、真に立派な部隊に仕上げることを、深く念願とした。 軍紀と訓練の向上をはかり、意図の徹底に努力した。 」と 地域の部隊というより、指揮官にもよるのではないでしょうか。 304 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 つまり師団が4個連隊編成なら四連隊区から選ばれる訳だ。 そのため団結力は歩兵よりは若干弱いかったそうだ。 宜昌で広島231連隊第7中隊の第1土塁に敵の砲撃、米軍機による空爆で 軍曹以下12名は防戦、3日間に及ぶ爆撃で陣地が壊滅したと判断したのか 500人の兵力で突撃してきた。 陣地直前に敵を撃退したが、その後も 敵は何回となく反復突撃し、遂に交通壕を堀り突入したため、白兵戦で 撃退したが、時に陣地の後方に住んでいる中国人が、炊き出しをして、 陣地に差し入れてくれた。 日頃から民衆に信頼されているからだろうと みな強く心をうたれた。 「米軍機P51が飛来し低空射爆撃、全く敵から 見たら赤子の手を捩じる様に思っているだろう。 普通であれば守備出来る 陣地ではない。 広い陣地に十名余りでは、中支にあって米軍と闘っている ことになる。 負けてたまるか。 」宜昌を守る事が出来たのも地元中国住民の 協力のおかげでもある。 守備兵力は広島231連隊11中隊の120名と投降帰順 中国兵150名。 初回から3回も夜襲、反復突撃を撃退した。 栄誉1師団も 敵ながらあっぱれな奮戦だった。 敵は死傷者の収容に移ったが、情義を もって見逃してあげた。 敵方の無電を傍受したところ「死傷者800、 至急補充頼む」しかし宜昌で仙台13師が苦戦、敵の奪回寸前の為 広島39師団は救援にむかい、嶺河口の包囲は解けず、敵の砲撃は 最高の猛威をふるい、この小さな陣地に一千発をこえる集中砲撃を浴びせ かけたが、1名も死傷者をださなかった。 幸運なのか、戦上手か不思議な ことだが、包囲中の敵は、中国人保安隊に対し寝返りを勧告 (家族を含め処刑すると脅迫)したが、中隊長との情義的密着は固く その国民性が示すとうり信頼の途をえらんだ。 この籠城戦でも、いくさに 勝つには、地域住民の協力と地域住民に信頼されることでしょう。 309 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 それと栄誉1師と闘った嶺河口防御戦のもようは、当時偕行社発行の 機関誌により広く知れ渡ったらしい。 住民も敵に焼き払うとおどかされたり、 隊長の首に十万元の賞金をかけたりしたが最後迄協力してくれた。 陸大入試に落とされてもクソくらえといった伝統のほか、 将校はみな曲がりなりにも確乎とした自信か自惚れかをもち、個性の強い、 一癖もニ癖も持ち合わせた人間が多かったらしく、軍神と謳われた郷土出身 杉本五郎少佐(死後中佐)も栄進栄達の執着者を最も嫌い、上層部の派閥に 激憤して亡国の溝と称し、将校に対し極めて厳格に模範を要求したが、 部下に注ぐ愛情は格別で、退役者も困る事があると私宅を訪問して 助けてもらった。 菅大佐にしてもそうだが上層部に厳しかった。 立身出世を 馬鹿にする広島らしい伝統、個性の豊かさも郷土の誇りでもある。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 間もなく日英同盟の締結となったが、その 英軍とマレーで戦うとは、皮肉なものだ。 元梶浦広島231連隊長は「宣撫に力を入れて、殺、焼,盗の三悪を戒めた。 その証拠に前部隊(仙台13師団)の時は鶏、豚は全く見られなかったのに 交代後住民は安心して鶏豚を飼い路上に女、子供が戯れ遊ぶ様になった。 殊に交戦中水や炭を運んでくれたこともあった。 」とあり軍紀の厳正と 中国住民の信頼が精強度に比例している。 他の部隊の軍紀については余り 知りませんが。 314 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 「日本陸軍がよくわかる辞典」 「日露戦争名将伝」 どちらもPHP文庫。 まだ読んでないけどね。 熊本師団が残虐行為をしたことは事実だ。 だが、それは日本軍の体質に大いに関係している。 補給が貧弱だから捕虜を食わせていく余裕がない。 だから捕虜は殺さざる得ない。 また中国人の戦争の仕方は2000年前から変わっていなかった。 中国の兵士は将棋の駒のように捕虜になれば殺されずに敵側の兵士として働くことになる。 だから捕虜になることに抵抗感はなかった。 虐殺は捕虜の扱い対する教育も余力もなかった日本軍としてはやむを得ない処置だった。 それを一地方の気質のせいにするのは間違いだ。 責任を負うならマクロでは日本人全体。 ミクロでは余力のないまま戦争を始めた大本営の参謀たちだろう。 言うまでもないが参謀の出身地は日本の全地方に及んでいる。 捕虜になることの抵抗感については、南寧戦では「我軍の捕虜となることを 嫌い、手榴弾で自爆する兵を散見した。 」とあり、また明清戦争の ありさまを記したマルチニ神父の「タタール戦記」に、「明の君主の救援に はせ参じた司令官のうちに、一人の英雄的な婦人がいた。 彼女は三千の兵を つれて四川省からやってきた。 この気高く心の広い婦人はただタタール (満州人)に対してのみでなく、のちに皇帝に反抗した謀反人に対しても、 彼女の勇気と胆力をしめした。 」この女傑は秦良玉と呼ばれる四川、 湖南省に住む苗族の女性で、苗軍団は明代土兵と呼ばれ広西省の少数民族で 構成された狼兵(対倭寇戦の時は司令官瓦氏(女性)で軍紀厳正で民間人の 食糧をうばった狼兵は即座に処刑されたという。 )と共に精強で一方数万の 朝鮮軍が、明の督戦武官を谷底に投げ満州軍に降伏したが対照的であった。 南寧も広西省だった。 全てが捕虜となることに抵抗感はなかったとはいえ ませんが抵抗感のない方が多いでしょう。 それと中国ではよく督戦軍が後方にいるので、後ろからやられるより 日本軍の捕虜になった方がよいのかも。 じいさんは長兄だが、弟2人を満州と沖縄で亡くしたことをたまに俺に語ってくれた。 曰く、弟達は地元の相撲大会じゃ負けたことがないとか、ただ一人戦地から無事で 帰って来た自分には"あの世で弟に合わせる顔がない"とか。 良スレですね。 それは部隊の軍紀にあり、誠意ある宣撫活動による。 広島231連隊は、訓練断行と軍紀厳正を両立させようと努力し、 昭和16年の沙市時代には第十一軍中に傑出するまでに到った。 この目立たない地味な努力は次第に結実し、敵軍の大反攻の時ですら 捕虜部隊である保安大隊は、一人として脱走するものもなかった。 嶺河口でも保安隊長楊少佐は、近郷の貧農出身で英才を惜しんだ故郷の 人達の温かい配慮で、官軍学校に送ってもらった。 そのおかげで今日ある 身だ。 彼は正義感も強く、熱烈な郷土愛に燃えていた。 そして敵兵達と 同一の民族である。 学問を学んだだけに、漢奸と呼ばれるのも屈辱だろう。 さぞ苦悩したであろう。 そして住民の方々も。 広島人としては彼らの 誠実と信頼を忘れてはならないと思います。 乃木を名将のように扱っていたが真相は如何に? 結局乃木は長州閥のお陰で出世できたように思う。 乃木の大きな罪は203高地を銃剣突撃で203高地を陥してしまったこと。 それが後の日本軍の基本方針になり大東亜戦争で無用な犠牲者を出した。 322 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 砲兵5連隊長、堀尾大佐は責任を感じ、今村師団長を訪ね、中隊生存者 約60名を自ら指揮して敵中に突進しようと許可を求めた。 しかし師団長は 許可しなかった。 代わりに南寧攻略時に捕獲したフランス製の砲4門を与え 今後の活躍に期待した。 その時今村師団長は乃木将軍の忍辱の生涯も語り 連隊長の突進を断念させた。 名将今村均氏は乃木将軍を尊敬していた そうなので、ここでは無用な犠牲者をださなかった。 結局南寧は21軍の方針「軍主力の到着まで、敵を引き付けておく」で 立派に固守されたが、困難な引き付け役は日清以来、常に広島師団が 受け持ちで、快勝よりも紙一重の激戦の方が多かった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 爺さんの 爺さんが44連隊で突っ込んで死んだからな。 善通寺師団も広島と同じく上陸師団だったので激戦が 多かったのでしょう。 日本軍の損害は戦死9,115名で戦傷者は 31,257名に達した。 参加師団は名古屋3、善通寺11両師団に 兵力不足で9月中旬に金沢9、仙台13、東京101の3個師団を戦線に 投入、敵は従来の兵力へ張自忠の3個師団と陳誠の部隊を送り、クリークと トーチカの巧みな利用で堅固な防御陣地を構築していた為各所で肉弾戦を 展開した。 11月5日に柳川兵団が杭州湾上陸(福山41連隊を先陣に 続いて熊本13、続いて大分47など6師団に久留米18、宇都宮114 師団を加えた)で上海の背後を突いて敵もついに崩壊した。 陳誠、 張自忠両将は広島部隊と宿縁で陳誠将軍は南寧で陣頭指揮した。 326 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 まあ東北は前九年合戦から戊辰戦争まで敗北続き、いや先の戦争までか 他国に蹂躙された屈辱の歴史からか自分を強く見せたがるのだろう。 「屈辱と権威への恭順を持つ集団からは勇気ある精神はうまれない。 この集団は屈辱的恭順性を持ち、従順さがその障害となっているのである。 (屈辱の歴史は卑屈な精神と敵の餌食となるような弱者にしてしまう)」 広島は他国に蹂躙されたことがないので、勇気ある精神を持ち、損ずるこが なかった。 沖縄戦は日本軍が無理矢理沖縄の民間人を狩りだして 悲劇を倍加させたように言われているが必ずしもそうでもない。 沖縄防衛の32軍司令官牛島満中将は沖縄赴任後にまずした仕事は 戦闘員と非戦闘員をはっきりと分け、 戦闘員だけが戦闘に臨める体制を作ることだった。 そのために県民の県外への避難を進めその過程で対馬丸の悲劇も起こっているが 避難させることができた県民は約10万。 米軍の侵攻が予想以上に速かったために残った県民は孤立してしまった。 このとき初めて防衛召集がかかり約3万の民間人が軍に組み入れられた。 県民の疎開が遅れたのは台湾沖海戦の誤報による楽観主義が主な原因だと思う。 大本営も32軍の基幹第9師団を台湾に抽出してしまったしね。 一応、牛島は県民の疎開の努力をしていたことを知ってほしい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 島北部も大変なとこですが、与えられた状況下でやれることはやったのでは? と思います。 どこへ逃げても同じ。 だから本土への疎開を勧めたんだけど、船もいつ沈められるかわからい。 現に対馬丸は赤十字をつけていたのにやられた。 だから県民は究極の選択を迫られ沖縄に残ったのではないかと思う。 結果、多くの県民が残り戦禍に巻き込まれた。 兵隊も必死だ。 民間人が足手まといになってそれで自分の命が危なくなるかもしれない。 その時、初めて皇軍の兵士が同胞に銃を向けるという悲劇が起こった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 感服いたしました。 私の祖父はビルマから生還した一人です。 これからも頑張って下さい! 宇都宮 桜通り十文字より。 お祖父様はビルマの帰還兵ということは第33師団通称弓兵団だね。 インパール戦では最もインパールまで近付いた師団として有名ですね。 あの戦いに参加して生還したお祖父様は間違いなく郷土の英雄です。 これからもお祖父様を大事にして下さい。 333 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 脱帽です。。。 祖父は5年前に亡くなりました。 私が小学校まではたまに戦時中の話をしてくれたんですが、 中学に上がるとピタッとその手の話はしなくなりました。 そう言えば、那須の戦争博物館を見て来ましたが、 中々良いですね。 館内の案内人は軍服を着込んで熱心に説明してくれます。 よく右翼系の雑誌に広告が出てますね。 館長がエキセントリックな人のようなので遠慮していました。 誤解だとしたら大変に失礼なことですね。 暇を見つけて行ってみたいと思います。 335 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 失礼しました。 右翼系の雑誌は見たことがないので・・・。 確かにそうかも。 でも、気さくな人で印象は悪くなかったですよ。 私もこの間初めて行ったんですが、 観光に来てた方達もごく普通の人達だったです。 さて、寝ます。 ありがとうでした。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 曽祖父、祖父は亡くなっており、父に聞いてもわかりません。 知っている事がありましたら教えて下さい。 戦績については詳しいことはわかりませんが、 日露では乃木の第三軍隷下で203高地の攻撃にも加わったようです。 騎兵とは第一次大戦まではその名の通り馬の機動性を生かして 長距離の斥候や奇襲に活用されました。 「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山好古大将は帝国陸軍の騎兵の生みの親であり、 騎兵を得意とするロシアのコサック騎兵と互角以上の戦いをしました。 第二次大戦中の騎兵は性格を変え自動車と装甲車を活用した攻撃部隊となり、 一部は戦車隊になりました。 恐らく、曾祖父様は歩兵の攻撃を支援する部隊の一員で兵隊の中ではエリートと言えるでしょう。 第七騎兵連隊は師団と行動を共にしたと考えられます。 第七師団は大戦中は主に北海道の防衛に当たり終戦も帯広で迎えています。 海外で悲惨な戦闘をせずに済んだ幸運な師団です。 江田島の元海軍兵学校の資料館で最も感動し且つ涙を誘うのは 6号潜水艇の艇長であった佐久間勉大尉(福井県三方町町出身)の遺書だろう。 明治43年4月15日、まだ実験段階にあった潜水艦で事故が起き 佐久間の乗り組む6号潜水艇は沈没してしまった。 乗り組み員は必死に浮上を試みるがやがて全員が窒息死してしまった。 艇長の佐久間は苦しい息の中で冷静に状況を記録し遺書を残した。 その時の遺書。 小官の不注意により陛下の艇を沈め 部下を殺す、誠に申し訳なし。 されど艇員一同、死に至るまで 皆よくその職を守り沈着に事を処せり。 我れ等は国家のため職に倒れしといえどもただただ遺憾とする所は 天下の士はこれの誤りもって将来潜水艇の発展に打撃を与うるに至らざるやを 憂うるにあり。 願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく 将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を さすれば我ら等一つも遺憾とするところなし。 同様の事故は欧米でも多数発生していたがこれほど沈着冷静に遺書を残した例はなかった。 この事故から約70年後の昭和65年、 日航のジャンボ機が墜落した時も同様の遺書を残した乗客がいたが 死を目前にしてもなお周囲を慮ることができるのは日本人の美徳と言っていい。 16軍の主力は2,38、48の各師団と第56混成旅団の 約6万。 ジャワ島の守備兵力は蘭、英、豪、米の連合軍約8万で、総指揮官 はテルプールテン中将でこの中将は、下級部隊が日本軍の動向を知りたいと 司令部に連絡すると「まだ新聞の朝刊が出ていないのでわからない」と返事 をして、3月1日に日本軍が上陸しているのに3日の昼も「まだ日本軍は 上陸していない」と発表し、その声明を出した5分後に日本軍の軽戦車が 姿を見せた。 5日の夕方になってもバンドンで会議し、「我がオランダ軍は 降伏するが、他の連合軍は勝手に戦闘してくれ」と宣言。 7日未明に 38師団若松大隊700名がバンドン郊外に突入し、3月10日に16軍は バンドンに入城。 (2師団と38師団の確執については伊藤正徳氏の 帝国陸軍の最後進攻篇P124,決戦篇P83~85にもある。 ) なぜ敵軍は戦意がなかったのか。 明白なことは現地人を敵としていた からだろう。 長期間の搾取の為現地人は恨み骨髄になり、日本軍に協力的 だった。 その後の日本軍政は今村中将の人徳もあり例外的な成功をおさめた。 これは日本陸軍中でも異例で、 明治から昭和のまでの名将といえば、矢張り今村均将軍であろう。 CA8T6GEL6 さん、ありがとうございます。 曾祖父は帯広で終戦を迎えたそうです。 祖父も帯広出身です。 軍服姿で馬に乗っている写真が幾つかありますが、所属や階級がわかりません。 親戚でも知っているものがいません。 戦場に行くことはなかったとはいえ、子孫へ戦時中に何をしていたのかが伝わらないのでは曾祖父も浮かばれないでしょう。 調べる方法があれば・・と思っています。 その時インドネシアの初代大統領のスカルノは密かに使いを送って 刑場に行く途中で襲撃隊を送ってあなたを助けるからと提案したが今村は断ったと言う。 理由は同じようにでっち上げの罪で死刑になった部下に申し訳ないということだったらしい。 裁判は罪状のでっち上げがばれて禁固10年になり巣鴨で服役することになったが 今村はインドネシアの小さな島であるマヌス島の刑務所で服役したいと言い出した。 理由は旧部下の戦犯たちと一緒に刑期を務めるため。 これに対してマッカーサーは次のような談話を残している。 「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためにマヌス島行きを希望していると聞き、 日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。 元第七師団の兵士たちによる回顧録や軍籍名簿は 自費出版や私家本の形で出ているかもしれないので 師団の編成地であった旭川の図書館にもしかしたらあるかもしれません。 図書館のレファレンスに相談してはいかがですか? 旭川くらいの都市の図書館ならレファレンスもしっかりしていると思うので もし図書館にない場合でも史料を探してくれたり最寄の軍人会を紹介して くれる場合もあるでしょう。 南寧攻略軍の 占領した市街の多くは、広東をはじめ市民が悉く避難し無人の境を なしているのに、仏山とその地方一帯は占領部隊の適切な処置により 一人も離散せず、日本軍と相互し生活起居を同じくしている事は 珍しい風景だった。 この点からも第五師団の各部隊長に私は大きな敬意を 感じた」とゆうておられた。 (わしは自慢しすぎですが、広島人が 軍紀厳正の素質もありと考えております。 )広島でも「今村のおやじは 話がわかる」と親しみを持ち、悪く言うひとはおらんでしょう。 今村均大将は宮城県出身。 陸大27期の首席。 インドネシアの占領政策だけでなくガダルカナルの撤退戦でも評判が高い。 孤立した島から日本軍が撤退できた最初にして最後でしかも唯一の例。 アメリカ海兵隊が総攻撃を開始した時は既にガ島はもぬけの殻だった。 大本営にこの人がいれば玉砕戦は激減しただろうにね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 アリューシャン方面は念頭になかった。 というかキスカのことはアッツの山崎保代大佐の玉砕が有名すぎてよく知らない。 キスカの指揮官の名が大村というのも今知った。 知っていることがあれば教えてほしい。 物の本によればアッツの予想外の抵抗にびびった米軍が攻撃を躊躇している隙に キスカから撤退したようなことが書いてあった。 それと書名は忘れたがアメリカ人が書いた戦記に 米軍がアリューシャンに師団単位の大兵力を投入したのは アメリカの本土だからというのは表向きの理由で 実は日本がB29クラスの戦略爆撃機を完成させた場合、 アリューシャンが中継基地になるおそれがあったからと記してあった。 日本軍は戦楽爆撃の構想など原爆と同じくらい現実味のないことだったので 何故北辺の島に米軍が大兵力を投入したのか理解できなったらしい。 余談だが日本軍が戦略爆撃機の中継基地を作るために アラスカに密かに調査部隊を派遣してそれとアラスカの森林パトロールが闘うという 「アラスカ戦線」という小説が早川文庫から出ていているが アメリカ人が書いたにしては日本人もヒーローとして描かれていて結構面白い。 オススメの娯楽小説だ。 暇なときに読んでね。 ビデオレンタルにいけばたぶんあると思いますよ。 時間の関係でじっくり見られないのが残念。 アリューシャン列島のアッツ、キスカを攻略した我軍でしたが、18年5月米軍の 逆襲でアッツ島守備隊は玉砕、キスカ島も米軍に封鎖され約5200名の我軍 将兵は孤立状態になりました。 撤収作戦はこの海域の天候特徴である濃霧の発生 を利用して警戒網を突破し湾内に突入して収容するという危険なものでしたが 奇跡的に作戦は成功し全員が帰還しました。 その後米軍はもぬけのからとも知らずに 大規模な上陸作戦を決行し同士討ちの犠牲者まで出してしまったとのことです。 この作戦が成功した要因は濃霧を利用したところにあるのですが、実は封鎖中の 米艦隊が目標誤認のレーダー射撃をやってしまい補給の為たまたま厳重な封鎖を そのときだけ解除してしまったことも大きな要因だったようです。 なおこの撤退で将兵は全員帰還しましたが、軍用犬など動物たちは収容を許されず 放棄されてしまいかわいそうでした。 以上キスカについて。 以後、大本営は孤立した島から兵士を救援するという重荷から解放された。 兵士を見捨てても「玉砕」という言葉で美化をすれば責任を逃れられる。 なまじ生還してしまったキスカの兵は邪魔だったかもしれないな。 353 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ところで8月8日5時半、浅草雷門交番前集合でオフ会をやるのだが、 皇軍を熱く語りたい人に来て欲しいなあ。 別に詳しくなくても軍事に興味がなくても熱く語りたくなくても構わないのだが、 人が多い方が盛り上がるからヒマなら来てね。 出席の可否や質問は まで。 356 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 8月8日(日) 末広がりの縁起のいい日だ。 午後5時半 ちょっと早めなのは神谷バーが混むから 浅草雷門交番前 わからなければ交番で訊こう 会費 ¥3000プラスアルファ 日曜日なので出席率は悪いと思うが5時半スタートなので 一次会は早く終わるから万障繰り合わせて出席してね。 生の奈良ちゃんに会えるぞ。 質問、出席の可否等は まで : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 西田敏行とかなすび、三瓶、村上弘明 とかの北の縄文顔より、渥美清、たけし、坂本九、美空ひばりとかのエラ出っ歯 不細工系チョソ顔が関東に圧倒的に多いし勝新太郎とかのモノホンが実際住んでるのも 自分そっくりの香具師ばっかできっと居心地がいいんだろう。 マナー悪かったり やかましかったり、短気だったり、あつかましかったり....... 隣の山口県や愛媛県とは相当に 違う血脈なのだ。 関東の飛地といえるほどの濃さで、鎌倉御家人の血脈が 受け継がれている。 広島人は蝦夷と関東武士の血が濃いのだろう。 事実わしの血脈を含め関東や東北の血がエット(たくさん)入っておる。 ほいでもわしらは、広島の風土で作られた人間で、土壌や植生が違う。 そういえば、海音寺潮五郎氏は「覇者の條件」文春文庫、平将門とその時代 (P211)で「坂東武士というのは、朝鮮人の血が濃厚に入っていた、従来の 日本人と違って荒々しくて勇敢で強情っ張りでね。 そういうところは、 朝鮮的性格だと思っているんです。 」 司馬遼太郎氏(この人の史観は?だが)は「日本の朝鮮文化」中央公論社 の中で(P73)「坂東人の原型は朝鮮原型のように思いますね。 アイヌ、 プラス朝鮮。 こういうことをいまの日本人は日常茶飯で認識しないと、 いつまでたってもオトナになれません。 」と人種は別として、風土から いうと東北は朝鮮、華北と似て、関東は移行地帯で、西日本は華南から ネパールかも。 スレからはずれてしまったが。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 」「地主や村長なりの形でおりまして、これが実に権威が あり、そのまま国家権力の重みをもってしまう。 よほどの反骨の持主で ないかぎり、従順にならざるをえない。 」おそらく南部の名子制度の様な 農奴制度かブナ林帯の小作制度のことをいいたいのだろうか。 (P31)「軍隊における兵の強弱とは、勇敢であるかどうかというより、 後方から受ける恐怖の度合いではかることもできます。 ここを一歩でも 退いたら国家によって家族まで殺されてしまうかもしれないという、 どうにもならない恐怖感が、兵士をして強からしめことが多い。 」と きめつけているが、それでは督戦軍が後方にいる中国軍等が最強になる。 確かに大軍勢の時など勇敢だったが、思考力停止の蛮勇ともいえる。 それよりも同士的結合を持ち、まるで戦を楽しんでいるかのような八路軍 の方が兵士の質も良かった。 と子供のころ聞いたことがあるのだが。 363 : 失笑。 東北朝鮮人説はww ていうかお互いに擦りあってるような感じもするよ。 東北人が強かったとしたらガタイの良さと、北東北系の野蛮な気質かもよ。 宮島近辺は清盛の瀬戸内海における根拠地として多くの平氏が土着した。 その平氏の発祥は坂東。 鎌倉の御家人以前から安芸と坂東は関係があったんだね。 朝鮮とのつながりで言えば長州の大内氏の家系は源平藤橘のいずれにも属さないで 百済王から始まっている。 まあ、千年以上前の先祖を云々しても意味はないけどな。 千年も遡ればほとんどの日本人は親戚になってしまう。 酒飲んで別れる時ヘバゆうんが。 他に三人知っとる。 擦りあてられとる朝鮮人もかわいそすぎる。 東北と 朝鮮人が全て似ているとは、思わぬが、戦前東北を旅行した人は内地と 違い、大陸や半島に近い様な娘の身売り、一部の富者と多数の貧困等、 異なげな所じゃと。 上記の司馬遼太郎氏の強兵説は批判的に書いておるん じゃがのう。 東北人が強かったとも思うてもおらん。 曽祖父が日露戦争に いっておるが、祖父から聞いた曽祖父の北東北兵弘前八師団の評価は、 黒溝台、奉天とまあ他部隊をおとしめることになるんでいわんがのう。 ガタイの良さは戦前の華北人の身長平均168より良かったんか。 確かに 華北兵と東北兵は似ているらしい。 北東北人は野蛮とは、南東北人?ほいで 東北に行ったこともあるが風土は雄大で、広島のように平野が少なく こじんまりした所の陰険で狡猾な人間と違い、東北の人間はスケールも 大きいですね。 上記362の同士はバツで同志。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 いわば黒潮文化圏みたいなもので精強だが政治性に乏しく 権力者にいいように利用される。 皇軍では最精強といわれた台湾の高砂義勇隊がその好例で、 日本では土佐人がその気質を色濃く受け継いでいるという。 維新の時、最も犠牲者が多かったのは土佐だが、 政治性がないために結局は薩長に おいしいところを持っていかれたということだね。 日本人は農耕民族だから田植えなどの農作業も近隣の人々が協力し合ってやっていた。 個人の意見よりも集団の意思を重視した社会でもある。 都会の兵よりも田舎の兵が強かったのはこういうところにあるんじゃないかな? 軍隊の強弱は一人の兵の強弱じゃない。 西洋人は体格はいいが日本軍にやられ放しだった。 最終的に勝てたのは物量と日本の参謀がバカだったからだ。 10人のばらばらの強兵よりも10人の団結した弱兵の方が強い。 他に分家となり関東、東北の地名を持った家も多数あり。 毛利が 山口県に移っても、国人の分家は別れの杯を交わし、土着する者が 多かった。 岡山の宇喜田氏も百済人説あり。

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郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史

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どこの師団が一番強かったか。 どこの師団が最弱か。 みんな郷土を代表して語れ。 5 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 それらは追々。 彼らは貧しい補給の中で東北人らしい粘り強さがあったとされている。 でも、ガダルカナルでは負けたけどね。 最弱と言われているのは京都第9連隊が所属していた第16師団と言われている。 (おれが言ったんじゃない) 第9連隊は通称「お公家さん部隊」。 「またも負けたか第9連隊」とも言われた。 レイテで全滅。 師団長も戦死。 師団長が戦死した師団は太平洋の激戦でも稀。 東北健児で編成されたのは第2師団だ。 タッチミスだよん。 ガダルカナルの第3次攻撃で2師が負けたとき、 兵団長の那須弓夫少将が戦死したんだけど、凄い名前だ。 米軍を甘く見すぎて一晩で全滅。 これが陸軍が米軍に負けた最初の戦闘だった。 以降、日本軍は一度も米軍に勝っていない。 15 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 司令官として予定された時間に予定された空域を飛ぶのはあまりに無謀。 日本軍がいかに官僚的だったがわかる。 戦艦よりも石油タンク、クレーン、工場を狙うべきだったのに。 潜水艦も大物戦艦狙い。 陸海とも補給の大切さをわかっていなかった。 田中新一は東条を風呂場で殴ったとか殴らなかったとか。 東条を殴ったところでない袖は振れないのにな。 と、言うか遡ればきりが無いですね : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 今度酒保でアンパンとサイダーをおごろう。 24 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 彼は満州に理想の国(地域)を作ろうとした。 要するに軍事とお国自慢の融合だよ。 ここの住民は彼を見習うべきww 26 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 明治大正のころは北海道の人口が少なくて北海道だけでは兵員がまかなえず、 東北関東からも徴募した。 日露戦争では203高地の攻略戦に参加したが、その後は目立った戦績はない。 余談だが一木支隊がガダルカナルで全滅した直後、 旭川の駐屯地に行進して兵営に入る兵隊の一団が目撃された。 衛兵は敬礼で迎えたが、いつの間にか消えてしまったと言う。 兵隊たちは一木支隊が霊魂となって帰還したと噂されて 今でも旭川の自衛隊駐屯地で目撃されることがあるらしい。 手痛い敗北を喫したのは一木支隊だけで、 師団の基幹は北海道防衛のために国内に留まった。 そのため損害軽微。 一番悲惨な師団はニューギニアに投入された第20師団かな。 師団総員約25500人のうち終戦で帰還したのはわずか785人だった。 31 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 悲惨な第20師団の編成地は朝鮮。 でも、兵隊は朝鮮人じゃなくて内地人、主に東北人で編成された。 つーか、北関東の高崎宇都宮水戸は全部強くて激戦に投入された。 インパール作戦でも中核を担っていたぞ。 兵員の質もすべて甲種合格者ばかりだったから兵自体が強かった。 常設師団一個で大戦中に動員された師団の三個分の兵力差が あったと言われたようだ。 まだ、戦争の初期だったから英軍は植民地兵で装備も貧弱だった。 チャリンコの移動で機動性が増したなんてのは トラック飛行機主体の当時では恥ずかしい。 その後の英軍は機動性を生かしアドミンボックスなどの新戦法で 旧態依然の日本軍を打ち負かした。 38式かついで銃剣突撃白兵戦の日本軍じゃ兵が強くても勝てる訳がない。 広島の第5師団の最後の師団長は終戦後兵の復員のめどがたつと自決した。 責任も取らずに逃げ回った師団長が多い中でこの態度は立派だと思うよ。 兵隊は全国から選ばれた精鋭ぞろい。 やはり25軍に属してマレー戦にも参加した。 近衛に入れば家族の誉れ。 その割には激戦地に配属されてないな。 近衛が玉砕しちゃ全軍の士気にかかわるって配慮があったのかな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 8は鉄火場から来た奴も多そうだしな。 重機関銃一丁運ぶのに馬は予備を含めて5頭。 弾薬は540発入り箱を4箱が馬一頭分の運搬量。 でも、老馬も多く定量どおり運べる馬は少なかった。 北の師団が強く、都会より田舎の師団が強いと言われたのは 屈強な馬を調達しやすかったということと関係あるのかな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 可哀想だな。 その増援部隊が16師団と聞いたとき1師団の兵はがっかりしたという。 「お公家さんに何ができるか」ってね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 第13は高田で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第15は豊橋で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第17は岡山で編成後、軍縮で廃止。 のち再編成。 第18は久留米で編成後、軍縮で廃止。 久留米には小倉師団が移転。 軍縮は言わずとしれた宇垣軍縮。 また、日本にスキーを伝えたレルヒ少佐が訪れたのは高田師団。 最初は北海道?? 北海道で記念像見たけど昔はストックが1本だったみたいだね。 無論郷土の偉人として自慢する分には何の問題も無いとは思う。 54 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 乃木は作戦指導におてはむしろ無能で長州閥の軍人として薩摩の東郷に対比される 人物として祭り上げられたにすぎない。 陸軍もやはり薩摩の軍人の活躍が目立った。 第1軍司令官で奉天攻略を成功させた黒木為楨大将は鹿児島の加治屋町出身で 東郷とは幼馴染だ。 二人は子供の頃から戦争ごっこで遊んだ仲だったという。 加治屋町には他に大山巌中将がいて鹿児島の小さな町から東郷、黒木、大山と 同じ時期に3人の将軍を出した。 思えばすごい町だな。 軍縮以前は20個師団体制で上ににあげた18個師団のほかに朝鮮で編成された 2個師団があったけどこれも省略した。 師団の編成は大体昭和初年の頃のものと思ってくれ。 日本陸軍のは今度調べてみるよ。 航空戦になってから弾道方程式の様相が変わってそうだし。 こちらは戦車の弾道方程式 物理の世界だね。 61 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 東京の第1連隊に続く若い番号の連隊だ。 この連隊は米軍が4日で占領予定だったペリリュ-島で70日間持ちこたえた後に玉砕した。 33師団隷下の隷下の213連隊はインパール作戦に参加し、 インパールまで20キロと迫った部隊だったが補給が続かず戦闘死より餓死者を 多く出して撤退した部隊。 その他に目立ったところではニューギニアで壊滅した41師団隷下の237連隊。 同じくニューギニアに投入される予定だったが海上輸送中に空爆を受けて、 上陸前に兵員装備を半減させた51師団隷下の102連隊がある。 こうしてみると悲劇的な部隊ばかりだけど太平洋戦が悲劇だったので 悲惨だったのは水戸の連隊ばかりじゃないよ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ありがとうございます。 そこいらをへこへこ歩いている爺様が、ニューギニアとかインパールとかきつーい所で戦っていたと思いますと感慨深いものかあります。 但し、士官は士官学校を出ると全国に赴任するので出身地は関係ない。 65 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ただ、日本のトップにいながら日本の現実がわかってなかったのは致命的だろ。 サイパンでは本気で資材を送り防衛も完璧だから 絶対に勝つと言っておきながらあっさり負けた。 大局的な戦略眼に欠けるところがあると思う。 そういう経緯で移転したのかもしれない。 また、自衛隊の連隊とは敗戦時に陸軍は解体してチャラになったので 連隊番号が同じでも直接の関係はない。 朝鮮戦争当時は参謀長、師団長クラスから下士官まで旧軍出身者で 号令も日本語だったそうな。 だから今でも韓国軍の内務班は旧陸軍的な教育がなされているらしい。 旧軍の伝統を色濃く残しているのは自衛隊よりむしろ韓国軍だったりして。 当時甲種合格は名誉とされていた。 当時の岩手県の山奥の小学生は、弁当を数個持って行くものがいた。 通学に何時間かけて歩くから、途中で腹が減るのだ。 脅威的な体力を持っていたのは言うまでもない。 東北に多かったこういった環境が強い兵隊を生む土壌だったのでしょう。 そういや有名な韓国軍のある将軍は未だに生きてるよ。 名前忘れたが。 雑誌に載ってたが日本語ペラペラだったらしい。 朝鮮戦争当時の韓国軍第1師団長から第1軍団長になった人。 3年位前に「若き将軍の朝鮮戦争」という本を日本でも出版した。 1920年生まれだから朝鮮戦争当時は35歳か。 これより上の世代だと朝鮮人は日本軍の士官学校に入るのは難しかったから この若さで中将にまでなれたんだろうな。 戦争物好きな人には必読だと思う。 カタカナ多いけど昔風で味があってよろしい。 大和が沈んで、他の船で助かろうとする仲間の手を刀で切った話とか出てくる。 まあこれは仕方無かったのだろうね。 通常、軍参謀は中将だ。 大尉とは失礼だぞ。 ガダルカナルは第2連隊じゃなくて第2師団だろ。 東北健児の第2師団はガダルカナルの第3次攻撃に参加して大損害を受けた。 師団は3個連隊編成だが2人の連隊長が戦死。 師団のナンバー3である兵団長までもが戦死した。 その後、ジャングルに入ってゲリラ化したが そのときに餓死で死んだ兵も多かった。 最終的には大本営の撤退作戦が成功して脱出できたが、 損耗率は80パーセントを超える全滅状態。 ガダルカナルから帰った兵士は敗戦を隠すために口外禁止の上 再度激戦地に行かされた。 叔父さんも相当辛い目に遭っていると思うよ。 それ未読だ。 新東宝で作られた映画は見たことあるけどね。 歴史少年だ。 すべての日本歴史に精通することを目指している。 すべての日本歴史に精通することを目指している。 そうか。 たしかに転進という発表だったような うちの爺さんは広島から原爆投下の2日前に門司へ行かされたらしい 幸運すぎる 88 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 おれにもわからん。 うちの伯父さんは戦争で片目失って恩給もらっている。 無職なのに三階建の家建てた。 おれにもわからん。 特に最初の2巻は。 歴史でもその出来事にに直面した人が生きているうちは研究対象とは なりえないし本当の客観的な「歴史」とはならないような気がする。 何百年前の出来事なら例えば、信長はミクロで見れば単なる虐殺者だが マクロで見れば革命児ともいえる。 歴史にイデオロギー色がなくなるのには少なくても100年は待つ必要がある。 ごめん未読だよ。 世の中には読むべき本が多すぎる。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 明治政府が富国強兵をはじめたとき。 もっと言えば19世紀半ばに維新が起きたとき。 16世紀に江戸幕府が鎖国をはじめて外国情報を遮断したとき。 ヨーロッパで大航海時代に覇権争いが生じたとき。 これらの線がすべてつながって太平洋戦争に至った。 そんな大きな括りじゃなく小さな括りだと政治的には同一の物。 戦争の仕方、兵器については別物だろうな。 せめて「忘れられた日本人」くらいは読まないとな。 日本の歴史学はランケの歴史学を範としているから 本来は客観的な立場にないといかんのだがな。 義満の「日本国王源」の署名についても将軍の権力を示す客観的な事実として 受け止めるべきだし、朝鮮出兵も事の良し悪しは別にして当時の日本の国力と 国内事情を知る手がかりとして見るべきだろう。 戦略論はクラウゼヴィッツだ。 陸軍は孫子もクラウゼヴィッツも忘れて戦っていた。 勝てるわけねえよ。 112 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 114 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 懲役ものだね。 恩賜の軍刀返します。 だから日露戦争で連戦連勝しても限界点を知っていたので講和をした。 ところがその後の世代は自分の手で国作りをしていない。 無敵関東軍と持てはやされて中国で連戦連勝しても いつかは限界が来るということがわかってなかった。 自分の身の丈に合ったところでやめておけば歴史は変わったかもね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 赤鬼部隊。 強襲師団。 永く日本最強と呼ばれた。 第2師団(仙台)夜襲の勇兵団。 世界戦史に名高い。 満州事変ガダルカナルで活躍。 第6師団と共に最強と呼ばれた。 第18師団(久留米)太平洋戦争期ではこれが最強か。 音に聞こえし菊兵団。 第56師団(久留米)チャーチル蒋介石から世界最強と絶賛。 一兵残らず玉砕する 凄まじさ。 第14師団(宇都宮)オレンジビーチ。 海がアメリカ兵の血でオレンジに染まったという・・。 こればっかりは過ぎたことなんで..... 師団長はあの牟田口のあとは大本営から左遷された田中新一。 高級参謀はあの辻政信だ。 牟田口は補給無視のジンギスカン戦法。 田中、辻コンビは優位な敵にたいしては猪突猛進するけど、 新戦法を用いられるととたんに手も足も出なくなる。 陸軍としては優秀な人材として派遣したんだろうけどね。 兵隊の質が違うんだろうね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 菊は最強との評価は当時からあったみたいだし勇や安なんかも ビルマ戦線では菊ほどの戦い振りをすることは出来なかった。 ミートキーナでの玉砕戦のような戦いは余程の強兵でないと為しえない。 125 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 硫黄島の第109師団のように三桁の師団でも 指揮官が優秀なら奮戦できるってことだ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 東北にある自衛隊の6・9師団は今だに隊員のレベルが高いらしい。 同じく出身者も。 東北人って真面目なんだろうね。 武人の誇りって奴か。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 指揮官が駄目なのは世界的に有名。 逆に軍曹クラス以下が優秀だった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 警察は鹿児島も。 多分職が無いのと昔からの伝統が合わさってるのでしょう。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 作戦も前例踏襲主義で新しい戦法は取らない。 新しい戦法で失敗すると責任を取らされると思っている。 それで攻撃はいつも迂回して銃剣突撃一本槍。 アメリカ軍にワンパターンがばれて待ち伏せされても戦法は変えない。 それと日本軍がついに自動小銃を正式採用しなかったのは 自動小銃だと弾を撃ちすぎて予算が追いつかないという官僚的な考えが あったという説もある。 熊本鎮台から続く伝統ある師団だからだ。 西南、日清、日露、満州事変と日本の戦争のすべてに主力として参加して負け知らず。 太平洋じゃ負け続けたけどね。 135 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 136 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 138 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 これも面白いからぜひ読んでみてくれ。 昔少年チャンピオンで連載されていた。 今の若者は知らないと思うが。 この漫画は兵隊やくざ+成らず者部隊がモデルとなっている。 少年誌にはもったい無い位に深い背景がある。 主人公は関西の少年矯正院出身、太平洋戦争ではコレヒドール攻略線に参加、戦後の最終章では舞台が渋谷に移り 東急VS闇市の戦いが始まるのだ。 ちなみに兵隊やくざとは、本当に日本軍に徴兵された実在した新宿の愚連隊がモデル。 ついでに成らず者部隊も実在したらしい。 荒くれ者の懲役等出身者だけをあつめて部隊を 編成したが、統制がとれずボロ負けしたらしいが。 142 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 インパールは仙台甲府宇都宮の師団。 久留米の精鋭菊と龍をインパールに投入しておけば勝てたとの評価もある。 国会図書館に保存されていた牟田口のインタビューテープが公開されたけど、 言い訳だらけだったらしい。 宇都宮の弓がインパールまであと10キロのところに迫ったけど、 これは英軍の戦略的撤退に乗せられただけのこと。 補給のない兵団が敵のホームグランドに誘いこまれてぼこぼこにされたってのが実情だ。 大体、飛行機を駆使した立体的な補給をする敵に対して 山羊に物資を運ばせて食料がなくなったら その山羊を食うという前時代的な補給の発想をする司令部が上にいたんじゃ、 兵がどんなに精鋭でも勝ってこない。 147 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 宇都宮と東北何かそうだろ。 出身は人吉の山のほうだったけど。 満州事変のときは、砲身を背中に担いで満州の山野を歩き回ったというが・・・。 確かに明治38年生まれにしてはデカイ人だったけど、今でも信じられん。 母方の親戚に、五家荘という平家の落人で有名な相当な山奥の出身だったけど、 その1人が近衛師団にいたらしい。 左座家といって、菅原道真の子孫を名乗って いるようだが、これも俄かに信じられない話です。 先日再放送した「映像の世紀20世紀」のヤルタ会談を見ると、 スターリンとともに、ルーズベルトの馬鹿野郎と激しく憤った。 157 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 当然ナチスより多い。 日本も当然共産化のターゲットだった。 横須賀人はもっと自慢しろ。 これは脅威的だ。 他にも自衛隊には未だに旧軍から使ってる施設が多い。 創生期にはM1小銃とともに日本軍の99式小銃も使っていた。 海軍も夜襲に成功したけど狙ったのは巡洋艦などの戦闘艦ばかり。 輸送艦を沈めておけばアメリカ軍は補給がなくなって日本軍に十分勝機はあった。 ちなみにガダルカナルの主任参謀は辻政信。 石川県出身だ。 お粗末な作戦で沢山の同胞を殺しておきながら戦後は石川県選出の国会議員。 煽るつもりはないけど石川県民の民度を疑ってしまう。 161 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 共産勢力に対抗する組織作りが目的だったらしい。 噂によると潜入すぐにゲリラに捕まって殺されたようだ。 ところが17軍司令部が上陸してみると米軍の強さは見ると聞くでは大違い。 なめてかかっていた司令部は途端に正攻法の自信をなくした。 それで急遽迂回戦法に変わったが、 その迂回路は第2次攻撃で失敗したコースとほぼ同じ。 これじゃ兵がいくら強くても勝ってこない。 再度の攻撃のためにガ島に派遣されたが、途中で輸送船を沈められて 身一つで上陸。 戦力にならないまま飢えでぼろぼろ。 わざわざ飢えるために上陸したようなもんだ。 168 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 前その話NHKでもやってた。 ちなみにおらは東北人なので第二師団びいきです。 176 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 とどちらも強い。 しかし、 演習が終わったあと、九州の師団はさっさと帰ってしまったが、 東北の師団は皆で後かたづけをしている」 やっぱり県民性なんでしょうか。 律儀というか。 スマソ : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 だすけ「姫路第三十九聯隊史」でも読んでくなんしょ。 181 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 182 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 こんな比類のない戦歴をけがすような事があっては、申訳ないことになる。 南寧攻防戦は「40年に及ぶ長い軍人生活の中で最も苦痛の激戦だった。 」 (激突すること40日草根をかじり、弾薬欠乏で石を投げ、竹槍を用い、 敵の死体から武器を求め、血で血を洗う限界を超えた死闘を展開した。 ) 戦後広島を訪れた同氏は広島の青年たちは、純朴さと文化度の平衡がとれ つまり「気がきいていてズルくさい」といえよう。 南寧のように一個師団でニ十四個師団を相手にしたのは 支那事変で始めてのことで、 今更ながら「広島人のねばり強さと闘志に感じ入った」と語られた。 鉄道連隊は特殊技能集団だから独立連隊だろ。 新京成の路線が曲がりくねっているのは鉄道連隊の演習線を使ったからなんだよね。 最近知ったがノモンハンは日本の惨敗ではなくてむしろ ソ連軍の方が戦死者が多かったそうだ。 ノモンハンの主力師団は熊本の23師団。 さすがに九州師団で兵は強いけど指揮官はバカ。 小松原は許しがたい。 中国軍の武器は人海戦術だから日本の一個師団で中国の十個師団を相手に することはよくあったらしいね。 あのアメリカ軍ですら朝鮮で北朝鮮を追い詰めた時、 目の前にいきなり日本軍の二十個師団に相当する30万の中国軍が現れて あっという間に戦線は崩壊して釜山まで押し戻されたくらいだからな。 俗に言う、敵の弾よりも兵が多ければ必ず勝てるってことだ。 187 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 問題はこれを米軍を相手にするときもこの比率で作戦を立ててしまったこと。 188 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ただの素朴な疑問であるが 189 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 海大学長、第二南遣艦隊司令長官、第二遣支艦隊司令長官、第一艦隊司令長官 第四艦隊司令長官、第五艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官歴任の高須四郎。 191 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 聞いた事のない名前で今は名前自体忘れてしまったが 恐らく地元と関係の深い海軍少将なのだろう。 海軍に関しては10年程前に「歴史と旅」の別冊として出た 「帝国海軍将軍総覧」という本を持っていたがどこかに埋もれてしまった。 持ってる奴いるかな? 海軍は真珠湾からマリアナまで語り尽くされている感があるしなあ。 お前も郷土の英雄山本五十六元帥について語ってもいいぞ。 新潟のTVも取材にきたらしい。 一昨年だったかな?いつかは忘れたが最近の話だ。 数々の極悪違法行為を反省することなく、今日も掲示板を荒らし続けている。 戦後ソ連国防相となったジェーコフ軍団長は、 将軍の過去最も苦しい戦闘はどこかの質問にノモンハンと言った。 ソ蒙地上軍は激戦中でも日本軍の遺体を埋め、草花まで供するなど余力を見せた。 小松原師団長は、ソ連通だったそうだが、 首脳部や幕僚間ではソ連軽視が大半を占めていたらしい。 198 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 大戦初期も装備もままならない米英の植民地軍相手だったから バターンでもマレーでも勝ってますますのぼせ上がってしまった。 それで軍首脳が戦争を舐めた。 確かに個々の兵は粘りがあって命令にも従順だが 首脳が無能すぎた。 結局日本軍は身体は健康だがおつむが弱い大男のような軍隊になってしまった。 そういえば、今日は2. 26だが反乱軍の将校たちもおつむは弱いような…。 大局観がなくて行き当たりばったりなんだよな。 新人物往来社刊だけどもう絶版かな? 203 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 弘前・姫路・久留米・豊橋ともに県庁を取られて地方が沈滞していたのを陸軍師団が救った。 また弘前・姫路には非県庁所在地には珍しく旧制高校も置かれる。 第39連隊は第10師団に属して、日露戦争では血染めの戦旗の伝説を残した(歴史博物館に寄贈)。 その後青島攻略戦・済南事件・満州事変・徐州攻略戦・フィリピン防衛戦に参加した。 海軍版の発売も近いかも。 このスレの海軍版として故郷の旧国名、山、川などの名を関した艦船自慢の スレも立てたいのだが艦船の編成や戦歴の史料が手元にないのでできなかった。 有名どころならわかるんだけどね。 「丸」の愛読者でスレ立ててくれる人いないかな? そういえば、大和級の4番艦は空母に改造して「尾張」か「土佐」 という名にする予定だったと聞いた記憶があるのだが詳しい人がいたら教えて。 もしかしたら「尾張」は勘違いかもしれない。 「おわり」じゃ縁起悪いもんな。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 13師団は野戦師団(2万5千人)で、39師団は警備師団(1万4千人) 宜昌は旅団長率いる2連隊(5大隊)で守備していた。 これを広島231連隊は 連隊長指揮の2大隊と2中隊で守備し、兵力は2分の1以下に 兵力比も1中隊に対し敵1個師団、そして圧倒的な敵の火力下 1人で数10人を相手に戦う死闘を展開することになった。 攻撃なら、1人の勇士がいれば他の者はそれに従がって進むからまだいい。 防御戦は、兵1人1人の戦闘能力が勝敗を左右する。 いちいち細かい命令指示をまたずに、自信をもって戦闘行動の出来る能力が要求され 各個人が鍛えられた戦士でなければ、そこが弱点となって敵に抜かれる心配がある。 そして素質、広島部隊の資質である機敏さを発揮することになる。 それは海軍も同じ。 敵の自動小銃に対してこちらは日露以来の38式。 スプレーを噴射したかのような濃密な弾幕への白兵突撃に黙々と従い、 食料がなくとも自活しながら敵の攻撃を受けて一歩も退かない粘り。 対して将官たちは猪突猛進するのみ。 教科書どうりの作戦で敵にあざ笑われているのに作戦を変えない。 取った土地は寸土といえど敵には渡さないという馬鹿げた方針のために 戦略的撤退という発想もなく負ければそれを隠すだけに汲々として 負けた原因を探り次回の作戦にフィールドバックするということもない。 こんなバカな指揮官が上にいたんじゃ兵が哀れすぎる。 」 と言ったということを聞いて喜んだ兵隊は宜昌に到着、警備交代のとき 「あとどのくらい来るのか」「これだけで守るつもりか。 強いんだなあ」と 親切、同情、冷やかし笑いながら軽蔑するものもいたという。 昭和17年暮、宜西地区左翼の中島高地が攻撃された。 この陣地は13師団時代敵に 占領された経験のある陣地で、僅か40名で千人の敵を撃退した。 守備兵は銃弾を撃ちつくし、手榴弾を投げつくし、ついにはビール瓶、土塊、石を投げ (ガラスの破片は匍匐する肌を切り、土塊、石は手榴弾と思い込んで逃げ回り、 それが散ると時として目をやられる。 )夜の闇を味方とし、原始的な創案を役立て 陣地寸前で敵を撃滅した。 守備兵たちは爆撃砲で鼓膜をやられ、しばしば幻影に襲われながらも 奮戦を続け、雲霞のように攻め寄せる敵を陣地寸前で撃滅した。 昭和19年7月、西陵山地区羽黒山陣地41名守備に、飛行機の銃撃並びに火砲7千発の 砲撃により、陣地はほとんど破壊され畑のように変わった。 手段を尽くし 陣地を補修し反復攻撃を30数回撃退、敵4コ営に壊滅的打撃を与えた。 40対10,000の圧倒的優勢な敵も猛攻撃を挫折した。 両守備隊は、第34軍司令官佐野中将より連続して感状を授与された。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 日本てのは後進国なの。 今の小泉の姿勢見てれば明らかだろ。 しかしなんだね。 景気が悪くなるとこういうナショナリズム全開バカが出てきて本当にやだねぇ。 こんなことよりテメーの働き口や年金の心配した方が賢明ってもんじゃねーの? 212 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 その上、バカ右翼に暖かいご忠告まで。 有難くって涙が出る。 ところでルーズベルトetc. とはマクロな見方なんだが 是非とも頭の良いあなたのミクロから見た 日本軍についてのご意見が拝聴したいなあ。 214 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 一月中旬の先遣隊から、 陸自部隊の到着は通算四回目。 隊員数は最多で、初めて女性の隊員十一人が部隊に加わった。 女性自衛官の海外派遣は、東ティモール国連平和維持活動(PKO)に続き二例目。 インパールのビルマ方面軍(第15軍だっけかな?)の参謀長をやったが あまりに無能だったので「ムノ村」とあだ名された。 33集団軍司令官張自忠上将を討ち取り軍感状を受け、 (事変勃発以来、高級指揮官の戦没は初めてだった。 ) 敵の宜昌防備中核、当陽主陣地を激戦の末これを抜き (それ故39師団主力も,他師団も大した難なく進攻できた。 ) 快進撃をもって宜昌東側に殺到、同地の占領を軍命令により 1日遅れの仙台13師団に譲った。 (13師団の行動距離も、39師団の80%にも達せず、 しかもほとんど敵影のない平野部が大半だった。 ) 最終時期の戦功は、231連隊の当陽敵陣地の攻略にあった。 張上将を葬る大殊勲は、各新聞社とも3、6、13師団には記者を送ったが、 5師団の分家とはいえ、警備師団の39師団は目標外、ところが蓋をあけると、 前記強豪師団に劣らぬ強者振りを発揮、各社とも最大の特種を逃がした。 その専田参謀が検死役にまわり「間違いない張君だ」 参謀長の、悲痛とも思える一言だった。 周囲に居合わせた者は一斉に「おめでとう」の声を発した。 だがつぎには悲運にも散って逝った武将の最期に敬虔な祈りと黙祷を捧げた。 一説によると将軍の夫人は戦死の報を聞き、夫の跡を追い絶食自害したという。 もしこれが事実なら、古来の日本婦道に比すべき姿であろう。 そして夜半すぎ敵が 猛烈な夜襲をかけて、その混乱に乗じて張将軍の遺体を持ち去った。 ところが第11軍は「張自忠の死体は飛行機で漢口まで送れ」といって来た。 自動車も運行至難な地域に、どこへ離着陸させるつもりか。 結局参謀長の手帳ぐらいを、飛行機で吊り送ることにした。 230 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 そのうち投下された通信筒による軍命令で 現在地へ停止することに「宜昌は仙台13師団が独占する。 」13師団は冬期作戦で 散々苦杯をなめた、不首尾を名誉挽回させるという軍の配慮か。 39師団最大の悲劇白河の渡河で山口233は三百数十名の戦死者を出した程なのに 仙台13に手柄をたてさせてやりたいから広島39はそのまま停止とは。 ある一兵士は「停止命令が下り、しばらくして反転命令が来た。 今敵に時を与えるのは反撃により多くの友軍の血が流されると言う 大事な時に一体何を考えているのであろうか。 戦後その真相を知った後、何とも言いようのない憤りを憶えた。 戦争を弄んでいるのだ。 戦争ごっこではない。 多くの血が流されたことを 知っているのであろうか。 」と言っている。 232 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 さて、我愛知県には山頂より三河湾を一望に見渡すことにできる三ヶ根山という 風光明媚な山がある。 ここは元々はドライブウェーと展望台の観光施設として開発 されたのだが、いつのころか旧陸海軍の慰霊碑が集まり始め、今では慰霊のメッカ となっている。 全国の部隊、数々の慰霊碑が立ち並ぶ様相はまさに霊場の雰囲気で ある。 我国の近代史、苦悩の歴史に共感し思いをはせるならば、1度来て見てはいかがな? 更に山頂付近には東京裁判においてA級戦犯として刑死された、東條、広田、松井、 土肥原、板垣、木村、武藤、の七氏が分骨された「殉国七氏之墓」があるが、 ここも巨大な石碑が建立され荘厳な雰囲気である。 連隊史や各中隊史(記)、 子供のころ老人達から聞いた話も参考になった。 第11軍のことも各戦記によるが、福山連隊史では許せないのは 岡村寧次の態度と名指してある。 旧軍の組織、資料、戦記をだらだらと書き写して いるだけ、しかも得意げに、さらにこれを博学だなんていってしまうやつがいるから ばかばかしい。 ときおり歴史に対する意見もあるが、いっていることが幼稚で過去の 戦争に対する自己の歴史観を構築しているとはとうてい思えない。 こんな輩が常駐支配しているスレはいらない。 この板はお国自慢の板、邪魔だ。 消え去れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 239 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 まあ、あんたが考えることはあんたの脳みその自由じゃ。 掛替えのない脳みそののう。 じゃが最初の文に「こいつら」たあ 行儀を知らん昭和人よのう。 「歴史」という学問も科学であるからには個人の感情は極力排さなければならない。 日本の歴史学はランケの考えに基づいて構築されている。 だからこそ大学で歴史を学ぶ際にはランケの歴史学が必修とされている。 だが、悲しいかな人間は自分のバックボーンというものに少なからず影響を受ける。 過去、皇国史観、家永史観が時代のバックボーンの中で強い影響力を持ってきたのはそのためだ。 もちろん、おれも過去歴史を学んだ者だがバックボーンの影響力から逃れられない。 歴史という光は一筋だがそれが時流というガラスのプリズムを通す時、 様々な色をなす。 旧日本軍は残虐無比だという色もあれば、貧弱な装備闘った英雄だという色もある。 君がどの色に最も反応するかは知らないが少なくともここで語り合っている人たちは 後者の色に近いし、おれもそれを望んでこのスレを立てた。 おれのレスを見てもらえばわかるがおれは必ずしも 旧軍を全面的に賛美しているわけではない。 将官級に厳しく、一般の兵に甘く評価している。 旧軍の将官は帝大より陸士陸大の方が出世できそうだと入隊し、 試験と年功序列によって登りつめた現代の官僚のようなものだと思っている。 だから作戦は稚拙で、負けても責任を取らない。 対して一般の兵は稚拙な作戦と装備補給の中で牛馬のごとくこき使われ、 人間業とは思えない精神力を発揮して闘い死んでいった。 その兵士を支えたのは家族に対する誇りであり郷土に対する誇りではないのか? ここではそういう郷土のために死んだ兵士の偉業を 現在郷土に住む者が堂々と自慢し合う場だ。 そして自分の父祖を誇りに思え。 それがおれのここでの主張だ。 最後におれは軍事オタではない。 どちっかつーと鉄オタだ。 わかった、それがスレッドの最初にあったならけちをつける気持ちは 毛頭なかった。 すまん、その歴史観に対して敬意を表しなおかつ賛同する。 ただ若干の相違をあえていうならば、軍部(幹部)悪玉、兵善玉という見方である。 俺はそうは思わない。 なぜならば米国の対日占領政策に迎合しているように とれるからである。 東條は、東京裁判で他の被告が沈黙する中証言台にたち 必死に我国の立場を訴えたではないか。 宇垣は中将のバッチを外し自ら特攻機に 搭乗したではないか。 大西も阿南も軍人として立派であったではないか。 確かに作戦計画には失敗や錯誤もあった。 インパール作戦など兵は誠に可哀相 であった。 しかし我陸海将兵は総力戦を国のため、郷土の為、家族の為に戦った のである。 将も兵も一緒である。 失敗は未来の国防に役立てればいい。 日清も日露も同様である。 郷土のために死んだ兵士の偉業を讃える。 そして自分の父祖を誇りに思え、このくだり については誠に同感相通じるものである。 最後に実は俺も近代史に興味をもっているが、どっちかというと鉄ヲタである。 ガンガレ!! 相変わらず行儀を知らん。 われは軽ういいよるが。 昭和人の歴史観とは特定の思想を持って、その思想の固定観念で判断するのか しかも巷でよく聞く反米保守の意見を述べ、とうてい自己の歴史観とはいえぬ 全く狂信的共産主義者とたいして変わらん。 その固定観念で先入観を持ち、 偏見を持ち、希望的観測を持ち最終的に判断を誤る。 国の為とか国防とか理屈を言うが、敵と闘う時「お国の為とか相手が憎いとか 考えなかった、ただ生存本能と負けてはならぬと気持ちだけだ」と語った 兵士が居るがそもそも闘いとは負けてはならぬ意地があるのみで、 それは思想、哲学の論理でなく生物として男の感情ではないか。 それ故子供のころ戦争の話を聞くのが楽しかった。 ちなみにわしの歴史観などない、風土、民俗学の方が好きである。 それ故ランケの西洋的な近代歴史学の見方よりも、イブン=ハルドゥーンの 歴史序説や司馬遷の史記など風土的考察があって面白い。 人間ならどんな地位にあろうともどんな組織に属していようと 一定の人間が集まれば悪人と善人の比率は同じになる。 従って、将軍たちにも立派な人物もいれば兵にも悪辣な奴はいる。 ただ、将官級を厳しく見るのは責任の度合いが違うからだ。 彼らは兵士の生殺与奪の権を握っていた、 だから責任もそれだけ大きいと言う訳だ。 たとえ、戦犯にならなくてもいやしくも閣下と呼ばれた人間は 全員腹を切ってもよかったと思っているくらいだ。 それと腹を切る時は一人で死んでほしかったね。 宇垣は搭乗機の乗員を道連れにして死んだ。 あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった。 おれはあれで宇垣の業績はすべて帳消しでになって やっぱり他と同じく無責任な将軍という見方をしている。 日本の歴史学がランケ史学を支持しているは建前でね。 戦後、公平中立な立場から歴史を見るという理想から出てきたものだ。 だが、現実は理想とは程遠いのは知っての通りだ。 ここでは歴史観なんて小難しい物は抜きにして 郷土の英雄を褒め称えたい。 中国韓国人は日本の軍人を悪魔のような極悪人のごとく思っている。 日本の左翼思想に影響を受けた層もまた同じ。 おれらが褒めなきゃ誰が褒める。 本当に道連れだったのか?喜んで同乗した可能性は? >あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった 俗説かもしれんが、生き残って帰って来た奴はずる賢い卑怯者だったケースも多かったらしい。 真面目で真剣な奴ほど死んでいる可能性もある。 主張にやや左翼思想が入ってる気がするなあ。 人命尊重とか。 だが、考えてみてほしい。 彼らは20歳をやっと超えたかという年齢だった。 尊敬する宇垣が敗戦の責任をとる為と称して最後の特攻に行くと言えば、 感激して同行すると言うのは明らかだ。 そのことに宇垣が気付かないはずがない。 だからこそ宇垣は一人で死んでほしかった。 あまり知られていないことだが終戦の翌日、東京秋川で一家心中があった。 死んだのは当時立川の参謀だった某少将。 彼はフィリピンで陸軍初の特攻を行った第四航空軍の参謀だった。 彼は若者を特攻に行かせた責任を取って、 そして忌まわしい自分の血を後世に残さないために 両親と妻娘を道連れにして死んだ。 当時彼は狂っていたという説もある。 だが、責任の重さというのは人を狂わせるほど大きい。 他人の子供を道連れにした宇垣は有名だが 自分の子供を道連れにした少将の名はほとんど知られていない。 某少将の名は隈部正美。 記憶の片隅に留めておいてほしい。 ただ、日本が好き。 家族が大事と思う思想でもなんでもない 素朴な考えを持っている。 人間で一番辛い死に方の一つは飢え死にだろ。 戦場では多くの兵士が食うものを食えずに死んだ。 だが、将官級で飢えて死んだという奴をおれは知らない。 兵士が飢えている時に毎晩、酒飲んで、将校飯を貪り食っていたって話は聞くけどな。 闘って死ぬのはまだ許せるが もし、自分の家族がそんな状況で死んだとしたら絶対に許せない。 意見がないよりいいわな。 今日本人の多くは過去の戦争の歴史を誤った過去として断罪しているが、果たして 本当に誤りだったのか?開戦前の国際環境は?勢力図は?列強の植民地支配は? 政治力学は?このような疑問が近代史への興味を駆り立てていった動機である。 そしてその疑問に答えてくれる多くの著書に出会い賛同し、感動した。 その結果が 過去の戦争の歴史に対する共感と戦死者に対する感謝である。 これが基本。 俺の歴史観を押し売りするつもりはまったくないが、「丸」写しのレスが多く意見に 乏しかったのでついけちをつけてしまった。 すまん。 因みに今読み始めたのは遅ればせながら司馬遼の「坂の上の雲」である。 宇垣中将に粘着してしまうが「有為な若者を無駄に死なせてしまった」 という言い方はやめてくれ、彼ら若者は無責任将官の為に犬死したというのか? 実は犬死でしたと遺族にいえるか!本人はもちろん遺族も我息子は恐れ多くも 海軍中将宇垣纏の搭乗機と共に南海の空に散ったことを悲しみと共に誇りに 思っているはずである。 それがすでに亡き人への最大の供養であろう。 先の大戦では軍人、軍属、民間、多くの犠牲者がでた。 しかし犬死などひとり もおらん、皆現代日本の礎になったのだ。 そういうことにしとけ。 俺が印象に残す悲しい例は、沖縄からの疎開学童約1000名を乗せた対馬丸 雷撃沈没である。 彼らは純粋に日本を愛していた若者だからこそ 終戦の詔勅を聞いた後、生き残ったという幸運を棄てて最後の特攻に赴いたのだろう。 だからこそ、宇垣は彼らを道連れにすべきではなかった。 宇垣ほどの名文家なら希望を失った彼らの力を別の方向に向けさせるだけの 文章を残せたはずだ。 「俺は死ぬが君らは生きろ」と言えたはずだ。 それをしなかったことが宇垣の晩節を汚したと言える。 事実そのようにして自害した師団長もいる。 昭和人ならわかると思うがこれは歴史観の問題ではなくて人間観の問題だ。 死ぬ時は一人で、死なぬのなら従容として裁きを受ける。 これが戦争に負けた国の将軍のあり方だと思うのだが。 言いたい事はわかりました。 特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。 でも宇垣は垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって 事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。 官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。 言いたい事はわかりました。 特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。 でも宇垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって 事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。 官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 これまで書いた39師団も現在中国では 極悪人あつかい、将兵とも中国人との友情があったのだが。 丸写しのスレは「郷土の誇り」師団、連隊の戦歴、実績を書く人が少なく 風評で書かれたもが多かった。 それと「郷土の英雄」一将兵の視点を大切にしたいんじゃが。 今読んでおるんは歴史読本四月号日露戦争100年目の真実。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 愛知岐阜民は信長の子だからしようがない。 本土との連絡をほとんど断たれた状態でアメリカの4個師団と闘って師団は壊滅状態。 そのときあえて死地に応援に向かったのが名古屋の26師団だった。 アメリカの制空下においては兵員、物資の満足な輸送も行えず 装備兵員の半分以上を失いながら京都師団と闘った戦友の間柄だ。 ちなみにその時の16師団は約13700名がレイテに上陸し生還者は620名。 生きて故郷に帰るには宝くじに当たるほどの幸運が必要だった。 戦闘の悲惨さは1師団の兵だった大岡昇平が「レイテ戦記」や「野火」に書いている。 京都も名古屋も生死を共にした戦友。 そしてここ最近のやりとりを見ればわかるようにどこの郷土の兵もみんな英雄だ。 ここでは自慢するのはいいが、他の地方を貶すのはやめにしてもらいたいな。 つまりは臨時首都だった。 広島人はこれを自慢しろ。 米軍の原爆投下で広島人なら 身内、親類、縁者に犠牲者が居るものだが、それにしても捕虜で同じ原爆被害にあった者を、しかも集団でリンチするとは。 昔の広島人は、名を惜しみ、卑怯といわれることを恥じ死するより辛いと考えて居たそうだが、この様な外道の逆恨みをする者もあり、全く恥部であり汚点を残した。 捕虜の話となると、39師団231連隊に居た菅 すが)少佐。 のちに、ボルネオのクチン捕虜収容所張となった菅中佐と軍参謀長のやりとり 「菅、捕虜のあのざまは何だ。 仕事をしているのか」「彼らも疲れきってますので」 「菅、貴様それでも日本人か」参謀長の言は、捕虜を虐待し酷使するのが、日本人の姿となる。 古来日本の武士は情誼に厚く、昨日の敵は今日の友とした。 その一断面を考えれば冷厳とはいえ、温情の一片があった。 参謀長を睨みかえした彼は「お言葉を返して恐縮しますが、捕虜が毎日何を食べ、どれほど作業しているか閣下はご存知ですか。 捕虜も人間です。 あの骨と皮ばかりの姿を、よく見てください。 」と怒気をこめ反発の叫びを発した。 これには参謀長も返事に困り、逆に捕虜達は、作業に出るたびに特別な増配にありついた。 他にも「私は捕虜の葬式の相談に帰ったのではない。 」(昭和20年春の収容所会議の席上での発言)で、東京中枢部の関係者を威圧沈黙させた。 戦後米国の女流作家アグネス・キース夫人の「三人は帰った」でベストセラーになり、映画化「戦場に架ける橋」(菅中佐には早川雪舟が扮した。 舞台がタイ方面になり 実際とはちがうが。 )、数々の雑誌、新聞に報道され、多くの外国人に対して、対日感情の好転に大きく貢献した。 そして遺灰は菅大佐の死後13年ぶりに、郷里広島の 遺族の手に帰ってきた。 こういう人こそ郷土の誇りである。 第二軍総司令部は、二葉の里にあったそうだが、詳しい話はきてませんので、長くなった続きはまたします。 「生きて虜囚の辱めを受けず」。 これほど罪深い言葉はありませんね。 日露戦争までは捕虜も恥とならなかったようで。 軍が現実的思考から精神的思考に移るに従ってこの言葉が全面に出てきたようです。 実際、捕虜は収容所の建設、食料衣服の支給、警備要員の配置など 間接的に敵を苦しめる戦力なのに。 捕虜とならないために潔く散る。 一見華々しいようだが戦争は華々しさより粘りが大事なはず。 島が攻略されても玉砕などせずゲリラに徹すれば 米軍も一定の戦力を貼り付けねばならなかったのにバンザイ突撃で日本軍の抵抗は終了。 米軍は面倒な掃蕩作戦をしなくて済んだ。 日本軍がそれに気付いたのはやっと硫黄島沖縄からですでに手遅れ。 軍がいかに精神的に硬直し現実を見ていなかったということでしょう。 日清戦争当時の広島は日本初の戒厳令がでたのは、不穏な騒乱を防ぐ為とか。 各地の兵隊が広島に集まり、宿泊施設が足りず民家に宿泊した兵隊もいたとか。 大本営の広島移設は伊藤博文首相の考えだったらしい。 大本営のことも詳しくありませんが。 ただ軍都広島となり、そのお膝元の兵隊によって日本の興亡がかかった一戦を戦った 大島第九旅団)というのもめずらしい。 以後広島の師団ほど歴戦を繰り返したことは 他に類例を見ないほどと言うのも、海外出兵の港を持つ軍都のお膝元ゆえか。 262 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 国軍のなかでも共に特別な存在だと近衛を意識していた。 マレイ作戦でもジョホルバール一番乗りを広島5師団、近衛師団、久留米18師団の各第一線部隊が争い、 5師団浜田21連隊第3大隊が突入、近衛師団より数分早かったが、かなり意識している。 のちに浜田21連隊第3大隊は、宇都宮51師団の指揮下に 1個中隊程度の小兵力で)入り悲惨な戦闘をする。 あれはラッパを吹いている最中に撃たれて即死したので死後硬直で ラッパが放れなくなったという人もいますが、 真相は何であれ広島師団の誇りとなったのは確かでしょう。 でも21連隊が似合う。 浜田の兵隊さんは、5師団きっての純朴で心がけのよい部隊、誠実、地味で、 広島とカラーが違い実直な兵士が多かったそうです。 浜田連隊は、中国地方屈指の高山三瓶山と浜子の膝まで没する砂浜で鍛え、 脚は無類に強くなり、一番乗りが多く「健脚強剛の二十一」とよばれた。 広島70師団(槍)の金華山攻略で殊勲は福山103大隊で攻撃は圧巻、全員殊勲。 黙っていても部下がどんどんやった。 「広島、福山は、細かい命令指示を またずに行動する、今村将軍曰く(気がきいていてずるくさい)」に対し 浜田104大隊は、夜行軍の連続、折柄の豪雨を物ともせず突進した健脚は、 流石浜田連隊よく攻撃に間に合った。 兵隊はブツブツ不平をこぼすのが 常だが、不平不満をいわず頑張った団結力は他の三大隊(広島、福山、山口) では、失礼ながら見られまいと。 島根県人(石見)らしい。 宇都宮師団の兵士も勇敢だったという。 そして51師団から玉砕命令が下ったが、浜田の兵隊さんは 軽々しく死することなく「これから死中に活を求めるのだ」と決心した。 ところが翌日撤退命令が下りサワラケットの山々を越えた。 行軍は悲惨で路傍に餓死者が横たわり、その数二千人余り。 この行軍中、51師団の鈴木参謀が浜田部隊の際だった行動を賞賛する 事実サワラケット越えをした各部隊で軽機はおろか小銃さえ持つ者は 稀であったのに浜田部隊は小銃一丁すら損ずる者はなかった。 この場合ラッパでなく銃を放さなかったということです。 水木は境港出身だから浜田連隊でニューギニアに派遣されたのでしょう。 漫画では本人がのんびりしている分、余計に戦場の悲惨さが伝わってきます。 270 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ニユーギニアでは福山41連隊も戦った。 ポートモレスビー攻略戦で スタンレー山系頂上線に進出、所在の敵を撃破してイオリバイアを占領し 敵米豪軍の心胆を寒からしめた。 しかしガダルカナル島の方が攻撃失敗で ポートモレスビー攻略続行を不可能にして撤退、後退行動は食糧が枯渇し 難渋した。 そしてギルワで圧倒的に優勢な敵に包囲され猛反攻を受けた。 物量に物をいわせた敵の攻撃に引き替え、補給の全く続かない我軍の憐れさ、 末期には地獄の如き様相を呈し、敵は我が負傷者を収容した壕を戦車で潰し 火焔放射器で焼き殺したりし、我方も食糧は尽き果て人肉を食むまでに、 それでも一歩も退かず長きにわたりくいとめたが、他の各地区守備隊全滅が 伝えられ、ギルワ陣地も最後が迫った。 しかし撤退命令を受け脱出を 始めても悪路と食糧の欠乏で多くの犠牲者を出し、中には一個中隊が全滅し 一人の生存者もなかったとか。 6ヶ月にわたる食糧の不足と悪疫で衰亡に 陥り退却した将兵であったが、誰一人「敵は強い」とか「戦闘で負けた」と 言った者はなかった。 立派な戦歴をもつ福山41連隊が全くもったいない 使われかたをしたそうです。 ニューギニアに南海支隊(支隊といっても兵力約1万6千で一個師団ほどの戦力があった)が 初上陸した頃のニューギニアを担任する司令部はラバウルの17軍でガダルカナルと 二方面を担当していて参謀のほとんどはガダルカナルにかかりきりでニーギニアを担当する参謀は わずか二人だった。 作戦開始からニューギニアはまま子扱いされていたんだね。 その後は18軍が創設されてニューギニア専任になったけど、 戦略限界点を超えた戦場ではどうにもならないのは明らか。 面白いのは弾薬は使用しなければ減らないので よほどのことでないよ射撃はしないように皆が心得ており、 敵の襲撃があっても一発必中でなく一発で二人を倒すことを 考えたそうで、広島5師団は忻口鎮、徐州、南寧と弾薬不足の激戦を 多数経験しているので、大陸でも弾を適当に減らして討伐に出たそうです。 279 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 大岡はレイテだったけどね。 今でも存命のニューギニア生き残りの元兵士の中には 死んでも葬式はしないでくれと言う人が多いと聞いた。 自分は獣に堕ちてしまったので葬式をしてもらう資格がないのだと言う。 極限の戦場は死んでも地獄、生きても地獄ってことだ。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 良スレだと思うんだけどなあ。 その後30師団の編成に入りレイテ島ハロ付近で圧倒的な敵と戦闘、 この戦闘で「その速射砲の行った戦車攻撃はレイテ島東部で行われた最も 有効な射撃であった」と米公刊戦史は伝えているそうだが、生存者も皆無の為 最後の情況もわからない。 日華事変の30才台の経験豊かな幹部の時と比べ 最後の時期は現役将校11名、連隊長が40才台の他は大,中隊長20才台 だったとあり、矢張りいかに善戦しようと、玉砕、敗北は広島県人にとっては 不名誉なことなので、郷土資料では余り多くは語られていない。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 圧倒的な敵に対して死力を尽くして戦い抜く。 負け戦とわかっていながら故郷の名誉を守るため決して逃げなかった。 彼らあってこその今日だと思います。 戦争でどのように戦ったか話を聞いたことはないのか? 婆さん、曾婆さんが銃後でどんな苦労をしたか聞いたことはないか? その苦労の末に今のお前がいる。 下らねえ書き込みする暇があれば自分の爺さん婆さんの自慢をしろ。 それがこのスレの本旨だ。 広島11連隊も上海ー南京戦に行くはずだったが、師団主力が平型関、 忻口鎮で苦戦の為師団復帰、もし杭州湾に参加していたら、 大活躍したろうし、忻口鎮の激突は中止されていただろうに。 231連隊の戦記で「今日の苛烈をきわめた激闘を戦い 抜き、負傷しながらも一命を完うし、病院まで後送しても、誰とて 非難するはずがないのに、手当てもそこそこに帰陣して居る。 廃墟の ような陣地へ、明日の命も危ない死地である。 我が死守すべきたる 陣地の責任感、自分が行くの犠牲心、身についてきた戦闘の自信で あろうか、それにもまして、激戦に耐え抜いた誇りがあり、他人に 陣地をゆだねることは、その心の誇りが許さなかったのだろうか。 」 と最終的には個人の誇りではないのでしょううか。 」 「敵を壊滅する為にどんな困難があるかも知れないが、 歯をくいしばって生きるだけ生きるのだ。 」とある。 それに広島人は、基本的に人の風下に立って服従して戦うのを嫌う。 軍上層部が理想とする九州、東北兵とカラーが違う。 敵の射撃を受けても、応射厳禁の厳命を犯し、勇ましいのが軽機を射った。 独断禁を犯してやるには相応の勇気がいる。 のち大目玉をくらったが、 結果的には敵軍の配備が明白になって、好都合だったとも言う。 確かに広島人は、軍上層部が求める兵隊らしい兵隊ではないでしょう。 こういう玉砕のパターンは一見華々しいようですが、 敵にとっては好都合。 殲滅戦の手間が省ける。 この愚かさに気付かせてくれたのが小笠原兵団の栗林中将。 もとより生還は期さず。 どうせ死ぬにしても粘って粘って一人十殺の戦法を取って 109師団(金沢)という3桁師団を率いながら硫黄島で敵と互角以上の戦いをした。 この戦法を沖縄で取り入れたのは牛島、長のコンビ。 島嶼戦を安易に考えていた米軍の戦略を根底から覆した。 米軍のコルネット、オリンピア両作戦を中止させたのは 硫黄島沖縄の英霊のお陰でしょう。 硫黄島では応射禁止をやぶって応戦したためにすり鉢山の砲台がばれてしまい、 緒戦で潰されましたけどね。 惜しむらくはもっと早くにバンザイ突撃の愚かさに 気付いていればってところでしょうか。 291 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 そして砂塵により視界をさえぎり、目を痛めるもの多発、昼夜の別なく 間断のない襲撃して来る敵の反撃に、その都度損害を出しながら撃退、しかし 我将兵は疲労、寒気、弾薬、糧食の不足に苦しみ、戦友の遺体を土嚢代わりに 積んで戦い続けた。 10月30日広島11連隊は野砲援護のもと総攻撃、 敵の気分的な弛緩時点をとらえ敵に大きな損害を与えた。 11月2日戦況は 急に活発化し、山口42連隊配属工兵のトンネル堀開が成功して敵陣地爆破、 友軍機が敵頭上へビラを撒いた。 敵は猛射し翌日には銃砲声も敵の姿も なかった。 全く悪戦、苦闘の激戦だった。 粟飯原21連隊長と西村参はともに陸大出身の同期だったが、不仲で 両者の対立は深刻なものだった。 忻口鎮の攻撃の際も1日だけ準備の 余裕を願った21連隊長の具申は冷たく却下され、翌朝から猛攻を 開始して惨状を現出した。 また時として参謀長自ら連隊を指揮する こともあり混乱した。 大場42連隊長も留守宅に投石されたり、嫌がらせの手紙がきた。 その文面に「連隊長は会津の出身だから明治維新で長州につぶされた。 最近の北支戦線で山口42連隊の死傷者が多いのは、連隊長が 恨みをはらそうと故意に兵隊を危地に進ませているからだろう」と。 この様な人間関係で兵達は激戦した。 山西軍は鈍重で精悍性に欠けるが、素朴で困苦欠乏に耐え、北国の 兵隊らしく、日本の東北兵に似ているのは風土的特徴といえる。 当時日本軍上層部は最強山西軍、最弱蒋介石の中央軍と考えて いたらしい。 閻は山西軍を温存させようとして中央軍を山西省に 入れたが、意に反し中央軍は一線に展開せず、山西軍の背後に在って 督戦軍と化してしまった。 敵も拙劣なことをした。 忻口鎮付近の戦闘で戦死1,651戦傷4,594計6,245名 参加兵力からみたら忻口鎮の死傷者は極めて高い。 山西省の陣地攻撃 と抗州湾上陸、広島師団は忙しい限りでした。 だが、九州あたりの部隊は、突入してきた。 だが、戦後、米軍の将校からすると、むしろ、つつ激して貰った方が楽だった。 撃ち殺せばいいから。 むしろ、バラバラになった大阪部隊を殲滅する方が 手間がかかった。 まあ、見方を変えればこんなもんかな。 このカキコが真実かどうか分からんが。 それもこれも島嶼戦で日本軍が玉砕し文字通り全滅してしまったので ゲリラ戦に対する備えが必要なかったからだ。 グアムの横井伍長やルパングの小野田少尉のように一人で生き残っても 組織的抵抗は不可能で逃げ回るしかなった。 そして生き残るということは横井さんが帰国したとき 「恥ずかしながら帰ってきました」と言ったように恥ずかしいことになってしまう。 号令一下、部隊が玉砕してしまうことは数多い日本軍の欠陥の一つだ。 「広島の者は手を挙げろ」初年兵達は一斉に 握りこぶしを挙げた。 全員広島出身だ。 「お前らの先輩はなっとらん。 指揮官一人敵陣に突っ込ませておいて、 誰もついて行きはしなかった。 」これは比喩だろうか? 「広島の兵隊には退却しろ。 そして後方を衝け」これは敵の本に書いてあった 言葉だそうだが、弾を食らってすぐ頭にくる県民性を物語っている。 中隊長は決心と攻撃計画を納得させるつもりで居たが、その必要はなかった。 「必死の顔をする者は一人も居ない。 熱心に聞いては居るが、笑い話が 混じる。 大した連中が揃ったものである。 これなら戦える、勝てる。 よーし見ていろ大隊長がいう半分どころか、戦死者は一割以下に喰い止めて 見せるぞ」と楽天的な県民性と言うべきでせうか。 ゙ (1 7 M) l l [ご当地].. : ; : : :. 恐らく、南京を攻略した熊本の第六師団のことを言っているんだと思うが、 その時、第六師団はどういう状態だった知っているのか? 長くなるから省くが日本人と中国人の戦争観の違いが後に南京大虐殺という 不祥事を起こしたとおれは理解している。 (あった、なかった論はキリがないから 勘弁。 でも中国人捕虜の虐殺があったことは確か) あの状況で九州以外の部隊が主力だったとしても同じような事件は起きた。 逆に問いたいがどこの地方の部隊だったら残虐行為がなかったと言えるのか? ここは各地方の部隊を公平に称えるスレであって根拠なしに貶めるスレではない。 もし、どうしても貶めたいならそれなりの根拠を書け。 議論は望むところだし、このスレも面白くなると思う。 澄田39師団長は「日露戦争では軍紀の厳正なことで世界の絶賛を博した 日本軍も日支事変では不幸にして、いまわしい事件が続発した。 少なくとも藤部隊だけは、この悪風潮から脱却して、日露戦争時代の先輩の 名をはずかしめない、真に立派な部隊に仕上げることを、深く念願とした。 軍紀と訓練の向上をはかり、意図の徹底に努力した。 」と 地域の部隊というより、指揮官にもよるのではないでしょうか。 304 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 つまり師団が4個連隊編成なら四連隊区から選ばれる訳だ。 そのため団結力は歩兵よりは若干弱いかったそうだ。 宜昌で広島231連隊第7中隊の第1土塁に敵の砲撃、米軍機による空爆で 軍曹以下12名は防戦、3日間に及ぶ爆撃で陣地が壊滅したと判断したのか 500人の兵力で突撃してきた。 陣地直前に敵を撃退したが、その後も 敵は何回となく反復突撃し、遂に交通壕を堀り突入したため、白兵戦で 撃退したが、時に陣地の後方に住んでいる中国人が、炊き出しをして、 陣地に差し入れてくれた。 日頃から民衆に信頼されているからだろうと みな強く心をうたれた。 「米軍機P51が飛来し低空射爆撃、全く敵から 見たら赤子の手を捩じる様に思っているだろう。 普通であれば守備出来る 陣地ではない。 広い陣地に十名余りでは、中支にあって米軍と闘っている ことになる。 負けてたまるか。 」宜昌を守る事が出来たのも地元中国住民の 協力のおかげでもある。 守備兵力は広島231連隊11中隊の120名と投降帰順 中国兵150名。 初回から3回も夜襲、反復突撃を撃退した。 栄誉1師団も 敵ながらあっぱれな奮戦だった。 敵は死傷者の収容に移ったが、情義を もって見逃してあげた。 敵方の無電を傍受したところ「死傷者800、 至急補充頼む」しかし宜昌で仙台13師が苦戦、敵の奪回寸前の為 広島39師団は救援にむかい、嶺河口の包囲は解けず、敵の砲撃は 最高の猛威をふるい、この小さな陣地に一千発をこえる集中砲撃を浴びせ かけたが、1名も死傷者をださなかった。 幸運なのか、戦上手か不思議な ことだが、包囲中の敵は、中国人保安隊に対し寝返りを勧告 (家族を含め処刑すると脅迫)したが、中隊長との情義的密着は固く その国民性が示すとうり信頼の途をえらんだ。 この籠城戦でも、いくさに 勝つには、地域住民の協力と地域住民に信頼されることでしょう。 309 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 それと栄誉1師と闘った嶺河口防御戦のもようは、当時偕行社発行の 機関誌により広く知れ渡ったらしい。 住民も敵に焼き払うとおどかされたり、 隊長の首に十万元の賞金をかけたりしたが最後迄協力してくれた。 陸大入試に落とされてもクソくらえといった伝統のほか、 将校はみな曲がりなりにも確乎とした自信か自惚れかをもち、個性の強い、 一癖もニ癖も持ち合わせた人間が多かったらしく、軍神と謳われた郷土出身 杉本五郎少佐(死後中佐)も栄進栄達の執着者を最も嫌い、上層部の派閥に 激憤して亡国の溝と称し、将校に対し極めて厳格に模範を要求したが、 部下に注ぐ愛情は格別で、退役者も困る事があると私宅を訪問して 助けてもらった。 菅大佐にしてもそうだが上層部に厳しかった。 立身出世を 馬鹿にする広島らしい伝統、個性の豊かさも郷土の誇りでもある。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 間もなく日英同盟の締結となったが、その 英軍とマレーで戦うとは、皮肉なものだ。 元梶浦広島231連隊長は「宣撫に力を入れて、殺、焼,盗の三悪を戒めた。 その証拠に前部隊(仙台13師団)の時は鶏、豚は全く見られなかったのに 交代後住民は安心して鶏豚を飼い路上に女、子供が戯れ遊ぶ様になった。 殊に交戦中水や炭を運んでくれたこともあった。 」とあり軍紀の厳正と 中国住民の信頼が精強度に比例している。 他の部隊の軍紀については余り 知りませんが。 314 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 「日本陸軍がよくわかる辞典」 「日露戦争名将伝」 どちらもPHP文庫。 まだ読んでないけどね。 熊本師団が残虐行為をしたことは事実だ。 だが、それは日本軍の体質に大いに関係している。 補給が貧弱だから捕虜を食わせていく余裕がない。 だから捕虜は殺さざる得ない。 また中国人の戦争の仕方は2000年前から変わっていなかった。 中国の兵士は将棋の駒のように捕虜になれば殺されずに敵側の兵士として働くことになる。 だから捕虜になることに抵抗感はなかった。 虐殺は捕虜の扱い対する教育も余力もなかった日本軍としてはやむを得ない処置だった。 それを一地方の気質のせいにするのは間違いだ。 責任を負うならマクロでは日本人全体。 ミクロでは余力のないまま戦争を始めた大本営の参謀たちだろう。 言うまでもないが参謀の出身地は日本の全地方に及んでいる。 捕虜になることの抵抗感については、南寧戦では「我軍の捕虜となることを 嫌い、手榴弾で自爆する兵を散見した。 」とあり、また明清戦争の ありさまを記したマルチニ神父の「タタール戦記」に、「明の君主の救援に はせ参じた司令官のうちに、一人の英雄的な婦人がいた。 彼女は三千の兵を つれて四川省からやってきた。 この気高く心の広い婦人はただタタール (満州人)に対してのみでなく、のちに皇帝に反抗した謀反人に対しても、 彼女の勇気と胆力をしめした。 」この女傑は秦良玉と呼ばれる四川、 湖南省に住む苗族の女性で、苗軍団は明代土兵と呼ばれ広西省の少数民族で 構成された狼兵(対倭寇戦の時は司令官瓦氏(女性)で軍紀厳正で民間人の 食糧をうばった狼兵は即座に処刑されたという。 )と共に精強で一方数万の 朝鮮軍が、明の督戦武官を谷底に投げ満州軍に降伏したが対照的であった。 南寧も広西省だった。 全てが捕虜となることに抵抗感はなかったとはいえ ませんが抵抗感のない方が多いでしょう。 それと中国ではよく督戦軍が後方にいるので、後ろからやられるより 日本軍の捕虜になった方がよいのかも。 じいさんは長兄だが、弟2人を満州と沖縄で亡くしたことをたまに俺に語ってくれた。 曰く、弟達は地元の相撲大会じゃ負けたことがないとか、ただ一人戦地から無事で 帰って来た自分には"あの世で弟に合わせる顔がない"とか。 良スレですね。 それは部隊の軍紀にあり、誠意ある宣撫活動による。 広島231連隊は、訓練断行と軍紀厳正を両立させようと努力し、 昭和16年の沙市時代には第十一軍中に傑出するまでに到った。 この目立たない地味な努力は次第に結実し、敵軍の大反攻の時ですら 捕虜部隊である保安大隊は、一人として脱走するものもなかった。 嶺河口でも保安隊長楊少佐は、近郷の貧農出身で英才を惜しんだ故郷の 人達の温かい配慮で、官軍学校に送ってもらった。 そのおかげで今日ある 身だ。 彼は正義感も強く、熱烈な郷土愛に燃えていた。 そして敵兵達と 同一の民族である。 学問を学んだだけに、漢奸と呼ばれるのも屈辱だろう。 さぞ苦悩したであろう。 そして住民の方々も。 広島人としては彼らの 誠実と信頼を忘れてはならないと思います。 乃木を名将のように扱っていたが真相は如何に? 結局乃木は長州閥のお陰で出世できたように思う。 乃木の大きな罪は203高地を銃剣突撃で203高地を陥してしまったこと。 それが後の日本軍の基本方針になり大東亜戦争で無用な犠牲者を出した。 322 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 砲兵5連隊長、堀尾大佐は責任を感じ、今村師団長を訪ね、中隊生存者 約60名を自ら指揮して敵中に突進しようと許可を求めた。 しかし師団長は 許可しなかった。 代わりに南寧攻略時に捕獲したフランス製の砲4門を与え 今後の活躍に期待した。 その時今村師団長は乃木将軍の忍辱の生涯も語り 連隊長の突進を断念させた。 名将今村均氏は乃木将軍を尊敬していた そうなので、ここでは無用な犠牲者をださなかった。 結局南寧は21軍の方針「軍主力の到着まで、敵を引き付けておく」で 立派に固守されたが、困難な引き付け役は日清以来、常に広島師団が 受け持ちで、快勝よりも紙一重の激戦の方が多かった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 爺さんの 爺さんが44連隊で突っ込んで死んだからな。 善通寺師団も広島と同じく上陸師団だったので激戦が 多かったのでしょう。 日本軍の損害は戦死9,115名で戦傷者は 31,257名に達した。 参加師団は名古屋3、善通寺11両師団に 兵力不足で9月中旬に金沢9、仙台13、東京101の3個師団を戦線に 投入、敵は従来の兵力へ張自忠の3個師団と陳誠の部隊を送り、クリークと トーチカの巧みな利用で堅固な防御陣地を構築していた為各所で肉弾戦を 展開した。 11月5日に柳川兵団が杭州湾上陸(福山41連隊を先陣に 続いて熊本13、続いて大分47など6師団に久留米18、宇都宮114 師団を加えた)で上海の背後を突いて敵もついに崩壊した。 陳誠、 張自忠両将は広島部隊と宿縁で陳誠将軍は南寧で陣頭指揮した。 326 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 まあ東北は前九年合戦から戊辰戦争まで敗北続き、いや先の戦争までか 他国に蹂躙された屈辱の歴史からか自分を強く見せたがるのだろう。 「屈辱と権威への恭順を持つ集団からは勇気ある精神はうまれない。 この集団は屈辱的恭順性を持ち、従順さがその障害となっているのである。 (屈辱の歴史は卑屈な精神と敵の餌食となるような弱者にしてしまう)」 広島は他国に蹂躙されたことがないので、勇気ある精神を持ち、損ずるこが なかった。 沖縄戦は日本軍が無理矢理沖縄の民間人を狩りだして 悲劇を倍加させたように言われているが必ずしもそうでもない。 沖縄防衛の32軍司令官牛島満中将は沖縄赴任後にまずした仕事は 戦闘員と非戦闘員をはっきりと分け、 戦闘員だけが戦闘に臨める体制を作ることだった。 そのために県民の県外への避難を進めその過程で対馬丸の悲劇も起こっているが 避難させることができた県民は約10万。 米軍の侵攻が予想以上に速かったために残った県民は孤立してしまった。 このとき初めて防衛召集がかかり約3万の民間人が軍に組み入れられた。 県民の疎開が遅れたのは台湾沖海戦の誤報による楽観主義が主な原因だと思う。 大本営も32軍の基幹第9師団を台湾に抽出してしまったしね。 一応、牛島は県民の疎開の努力をしていたことを知ってほしい。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 島北部も大変なとこですが、与えられた状況下でやれることはやったのでは? と思います。 どこへ逃げても同じ。 だから本土への疎開を勧めたんだけど、船もいつ沈められるかわからい。 現に対馬丸は赤十字をつけていたのにやられた。 だから県民は究極の選択を迫られ沖縄に残ったのではないかと思う。 結果、多くの県民が残り戦禍に巻き込まれた。 兵隊も必死だ。 民間人が足手まといになってそれで自分の命が危なくなるかもしれない。 その時、初めて皇軍の兵士が同胞に銃を向けるという悲劇が起こった。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 感服いたしました。 私の祖父はビルマから生還した一人です。 これからも頑張って下さい! 宇都宮 桜通り十文字より。 お祖父様はビルマの帰還兵ということは第33師団通称弓兵団だね。 インパール戦では最もインパールまで近付いた師団として有名ですね。 あの戦いに参加して生還したお祖父様は間違いなく郷土の英雄です。 これからもお祖父様を大事にして下さい。 333 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 脱帽です。。。 祖父は5年前に亡くなりました。 私が小学校まではたまに戦時中の話をしてくれたんですが、 中学に上がるとピタッとその手の話はしなくなりました。 そう言えば、那須の戦争博物館を見て来ましたが、 中々良いですね。 館内の案内人は軍服を着込んで熱心に説明してくれます。 よく右翼系の雑誌に広告が出てますね。 館長がエキセントリックな人のようなので遠慮していました。 誤解だとしたら大変に失礼なことですね。 暇を見つけて行ってみたいと思います。 335 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 失礼しました。 右翼系の雑誌は見たことがないので・・・。 確かにそうかも。 でも、気さくな人で印象は悪くなかったですよ。 私もこの間初めて行ったんですが、 観光に来てた方達もごく普通の人達だったです。 さて、寝ます。 ありがとうでした。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 曽祖父、祖父は亡くなっており、父に聞いてもわかりません。 知っている事がありましたら教えて下さい。 戦績については詳しいことはわかりませんが、 日露では乃木の第三軍隷下で203高地の攻撃にも加わったようです。 騎兵とは第一次大戦まではその名の通り馬の機動性を生かして 長距離の斥候や奇襲に活用されました。 「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山好古大将は帝国陸軍の騎兵の生みの親であり、 騎兵を得意とするロシアのコサック騎兵と互角以上の戦いをしました。 第二次大戦中の騎兵は性格を変え自動車と装甲車を活用した攻撃部隊となり、 一部は戦車隊になりました。 恐らく、曾祖父様は歩兵の攻撃を支援する部隊の一員で兵隊の中ではエリートと言えるでしょう。 第七騎兵連隊は師団と行動を共にしたと考えられます。 第七師団は大戦中は主に北海道の防衛に当たり終戦も帯広で迎えています。 海外で悲惨な戦闘をせずに済んだ幸運な師団です。 江田島の元海軍兵学校の資料館で最も感動し且つ涙を誘うのは 6号潜水艇の艇長であった佐久間勉大尉(福井県三方町町出身)の遺書だろう。 明治43年4月15日、まだ実験段階にあった潜水艦で事故が起き 佐久間の乗り組む6号潜水艇は沈没してしまった。 乗り組み員は必死に浮上を試みるがやがて全員が窒息死してしまった。 艇長の佐久間は苦しい息の中で冷静に状況を記録し遺書を残した。 その時の遺書。 小官の不注意により陛下の艇を沈め 部下を殺す、誠に申し訳なし。 されど艇員一同、死に至るまで 皆よくその職を守り沈着に事を処せり。 我れ等は国家のため職に倒れしといえどもただただ遺憾とする所は 天下の士はこれの誤りもって将来潜水艇の発展に打撃を与うるに至らざるやを 憂うるにあり。 願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく 将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を さすれば我ら等一つも遺憾とするところなし。 同様の事故は欧米でも多数発生していたがこれほど沈着冷静に遺書を残した例はなかった。 この事故から約70年後の昭和65年、 日航のジャンボ機が墜落した時も同様の遺書を残した乗客がいたが 死を目前にしてもなお周囲を慮ることができるのは日本人の美徳と言っていい。 16軍の主力は2,38、48の各師団と第56混成旅団の 約6万。 ジャワ島の守備兵力は蘭、英、豪、米の連合軍約8万で、総指揮官 はテルプールテン中将でこの中将は、下級部隊が日本軍の動向を知りたいと 司令部に連絡すると「まだ新聞の朝刊が出ていないのでわからない」と返事 をして、3月1日に日本軍が上陸しているのに3日の昼も「まだ日本軍は 上陸していない」と発表し、その声明を出した5分後に日本軍の軽戦車が 姿を見せた。 5日の夕方になってもバンドンで会議し、「我がオランダ軍は 降伏するが、他の連合軍は勝手に戦闘してくれ」と宣言。 7日未明に 38師団若松大隊700名がバンドン郊外に突入し、3月10日に16軍は バンドンに入城。 (2師団と38師団の確執については伊藤正徳氏の 帝国陸軍の最後進攻篇P124,決戦篇P83~85にもある。 ) なぜ敵軍は戦意がなかったのか。 明白なことは現地人を敵としていた からだろう。 長期間の搾取の為現地人は恨み骨髄になり、日本軍に協力的 だった。 その後の日本軍政は今村中将の人徳もあり例外的な成功をおさめた。 これは日本陸軍中でも異例で、 明治から昭和のまでの名将といえば、矢張り今村均将軍であろう。 CA8T6GEL6 さん、ありがとうございます。 曾祖父は帯広で終戦を迎えたそうです。 祖父も帯広出身です。 軍服姿で馬に乗っている写真が幾つかありますが、所属や階級がわかりません。 親戚でも知っているものがいません。 戦場に行くことはなかったとはいえ、子孫へ戦時中に何をしていたのかが伝わらないのでは曾祖父も浮かばれないでしょう。 調べる方法があれば・・と思っています。 その時インドネシアの初代大統領のスカルノは密かに使いを送って 刑場に行く途中で襲撃隊を送ってあなたを助けるからと提案したが今村は断ったと言う。 理由は同じようにでっち上げの罪で死刑になった部下に申し訳ないということだったらしい。 裁判は罪状のでっち上げがばれて禁固10年になり巣鴨で服役することになったが 今村はインドネシアの小さな島であるマヌス島の刑務所で服役したいと言い出した。 理由は旧部下の戦犯たちと一緒に刑期を務めるため。 これに対してマッカーサーは次のような談話を残している。 「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためにマヌス島行きを希望していると聞き、 日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。 元第七師団の兵士たちによる回顧録や軍籍名簿は 自費出版や私家本の形で出ているかもしれないので 師団の編成地であった旭川の図書館にもしかしたらあるかもしれません。 図書館のレファレンスに相談してはいかがですか? 旭川くらいの都市の図書館ならレファレンスもしっかりしていると思うので もし図書館にない場合でも史料を探してくれたり最寄の軍人会を紹介して くれる場合もあるでしょう。 南寧攻略軍の 占領した市街の多くは、広東をはじめ市民が悉く避難し無人の境を なしているのに、仏山とその地方一帯は占領部隊の適切な処置により 一人も離散せず、日本軍と相互し生活起居を同じくしている事は 珍しい風景だった。 この点からも第五師団の各部隊長に私は大きな敬意を 感じた」とゆうておられた。 (わしは自慢しすぎですが、広島人が 軍紀厳正の素質もありと考えております。 )広島でも「今村のおやじは 話がわかる」と親しみを持ち、悪く言うひとはおらんでしょう。 今村均大将は宮城県出身。 陸大27期の首席。 インドネシアの占領政策だけでなくガダルカナルの撤退戦でも評判が高い。 孤立した島から日本軍が撤退できた最初にして最後でしかも唯一の例。 アメリカ海兵隊が総攻撃を開始した時は既にガ島はもぬけの殻だった。 大本営にこの人がいれば玉砕戦は激減しただろうにね。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 アリューシャン方面は念頭になかった。 というかキスカのことはアッツの山崎保代大佐の玉砕が有名すぎてよく知らない。 キスカの指揮官の名が大村というのも今知った。 知っていることがあれば教えてほしい。 物の本によればアッツの予想外の抵抗にびびった米軍が攻撃を躊躇している隙に キスカから撤退したようなことが書いてあった。 それと書名は忘れたがアメリカ人が書いた戦記に 米軍がアリューシャンに師団単位の大兵力を投入したのは アメリカの本土だからというのは表向きの理由で 実は日本がB29クラスの戦略爆撃機を完成させた場合、 アリューシャンが中継基地になるおそれがあったからと記してあった。 日本軍は戦楽爆撃の構想など原爆と同じくらい現実味のないことだったので 何故北辺の島に米軍が大兵力を投入したのか理解できなったらしい。 余談だが日本軍が戦略爆撃機の中継基地を作るために アラスカに密かに調査部隊を派遣してそれとアラスカの森林パトロールが闘うという 「アラスカ戦線」という小説が早川文庫から出ていているが アメリカ人が書いたにしては日本人もヒーローとして描かれていて結構面白い。 オススメの娯楽小説だ。 暇なときに読んでね。 ビデオレンタルにいけばたぶんあると思いますよ。 時間の関係でじっくり見られないのが残念。 アリューシャン列島のアッツ、キスカを攻略した我軍でしたが、18年5月米軍の 逆襲でアッツ島守備隊は玉砕、キスカ島も米軍に封鎖され約5200名の我軍 将兵は孤立状態になりました。 撤収作戦はこの海域の天候特徴である濃霧の発生 を利用して警戒網を突破し湾内に突入して収容するという危険なものでしたが 奇跡的に作戦は成功し全員が帰還しました。 その後米軍はもぬけのからとも知らずに 大規模な上陸作戦を決行し同士討ちの犠牲者まで出してしまったとのことです。 この作戦が成功した要因は濃霧を利用したところにあるのですが、実は封鎖中の 米艦隊が目標誤認のレーダー射撃をやってしまい補給の為たまたま厳重な封鎖を そのときだけ解除してしまったことも大きな要因だったようです。 なおこの撤退で将兵は全員帰還しましたが、軍用犬など動物たちは収容を許されず 放棄されてしまいかわいそうでした。 以上キスカについて。 以後、大本営は孤立した島から兵士を救援するという重荷から解放された。 兵士を見捨てても「玉砕」という言葉で美化をすれば責任を逃れられる。 なまじ生還してしまったキスカの兵は邪魔だったかもしれないな。 353 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 ところで8月8日5時半、浅草雷門交番前集合でオフ会をやるのだが、 皇軍を熱く語りたい人に来て欲しいなあ。 別に詳しくなくても軍事に興味がなくても熱く語りたくなくても構わないのだが、 人が多い方が盛り上がるからヒマなら来てね。 出席の可否や質問は まで。 356 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 8月8日(日) 末広がりの縁起のいい日だ。 午後5時半 ちょっと早めなのは神谷バーが混むから 浅草雷門交番前 わからなければ交番で訊こう 会費 ¥3000プラスアルファ 日曜日なので出席率は悪いと思うが5時半スタートなので 一次会は早く終わるから万障繰り合わせて出席してね。 生の奈良ちゃんに会えるぞ。 質問、出席の可否等は まで : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 西田敏行とかなすび、三瓶、村上弘明 とかの北の縄文顔より、渥美清、たけし、坂本九、美空ひばりとかのエラ出っ歯 不細工系チョソ顔が関東に圧倒的に多いし勝新太郎とかのモノホンが実際住んでるのも 自分そっくりの香具師ばっかできっと居心地がいいんだろう。 マナー悪かったり やかましかったり、短気だったり、あつかましかったり....... 隣の山口県や愛媛県とは相当に 違う血脈なのだ。 関東の飛地といえるほどの濃さで、鎌倉御家人の血脈が 受け継がれている。 広島人は蝦夷と関東武士の血が濃いのだろう。 事実わしの血脈を含め関東や東北の血がエット(たくさん)入っておる。 ほいでもわしらは、広島の風土で作られた人間で、土壌や植生が違う。 そういえば、海音寺潮五郎氏は「覇者の條件」文春文庫、平将門とその時代 (P211)で「坂東武士というのは、朝鮮人の血が濃厚に入っていた、従来の 日本人と違って荒々しくて勇敢で強情っ張りでね。 そういうところは、 朝鮮的性格だと思っているんです。 」 司馬遼太郎氏(この人の史観は?だが)は「日本の朝鮮文化」中央公論社 の中で(P73)「坂東人の原型は朝鮮原型のように思いますね。 アイヌ、 プラス朝鮮。 こういうことをいまの日本人は日常茶飯で認識しないと、 いつまでたってもオトナになれません。 」と人種は別として、風土から いうと東北は朝鮮、華北と似て、関東は移行地帯で、西日本は華南から ネパールかも。 スレからはずれてしまったが。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 」「地主や村長なりの形でおりまして、これが実に権威が あり、そのまま国家権力の重みをもってしまう。 よほどの反骨の持主で ないかぎり、従順にならざるをえない。 」おそらく南部の名子制度の様な 農奴制度かブナ林帯の小作制度のことをいいたいのだろうか。 (P31)「軍隊における兵の強弱とは、勇敢であるかどうかというより、 後方から受ける恐怖の度合いではかることもできます。 ここを一歩でも 退いたら国家によって家族まで殺されてしまうかもしれないという、 どうにもならない恐怖感が、兵士をして強からしめことが多い。 」と きめつけているが、それでは督戦軍が後方にいる中国軍等が最強になる。 確かに大軍勢の時など勇敢だったが、思考力停止の蛮勇ともいえる。 それよりも同士的結合を持ち、まるで戦を楽しんでいるかのような八路軍 の方が兵士の質も良かった。 と子供のころ聞いたことがあるのだが。 363 : 失笑。 東北朝鮮人説はww ていうかお互いに擦りあってるような感じもするよ。 東北人が強かったとしたらガタイの良さと、北東北系の野蛮な気質かもよ。 宮島近辺は清盛の瀬戸内海における根拠地として多くの平氏が土着した。 その平氏の発祥は坂東。 鎌倉の御家人以前から安芸と坂東は関係があったんだね。 朝鮮とのつながりで言えば長州の大内氏の家系は源平藤橘のいずれにも属さないで 百済王から始まっている。 まあ、千年以上前の先祖を云々しても意味はないけどな。 千年も遡ればほとんどの日本人は親戚になってしまう。 酒飲んで別れる時ヘバゆうんが。 他に三人知っとる。 擦りあてられとる朝鮮人もかわいそすぎる。 東北と 朝鮮人が全て似ているとは、思わぬが、戦前東北を旅行した人は内地と 違い、大陸や半島に近い様な娘の身売り、一部の富者と多数の貧困等、 異なげな所じゃと。 上記の司馬遼太郎氏の強兵説は批判的に書いておるん じゃがのう。 東北人が強かったとも思うてもおらん。 曽祖父が日露戦争に いっておるが、祖父から聞いた曽祖父の北東北兵弘前八師団の評価は、 黒溝台、奉天とまあ他部隊をおとしめることになるんでいわんがのう。 ガタイの良さは戦前の華北人の身長平均168より良かったんか。 確かに 華北兵と東北兵は似ているらしい。 北東北人は野蛮とは、南東北人?ほいで 東北に行ったこともあるが風土は雄大で、広島のように平野が少なく こじんまりした所の陰険で狡猾な人間と違い、東北の人間はスケールも 大きいですね。 上記362の同士はバツで同志。 : 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 いわば黒潮文化圏みたいなもので精強だが政治性に乏しく 権力者にいいように利用される。 皇軍では最精強といわれた台湾の高砂義勇隊がその好例で、 日本では土佐人がその気質を色濃く受け継いでいるという。 維新の時、最も犠牲者が多かったのは土佐だが、 政治性がないために結局は薩長に おいしいところを持っていかれたということだね。 日本人は農耕民族だから田植えなどの農作業も近隣の人々が協力し合ってやっていた。 個人の意見よりも集団の意思を重視した社会でもある。 都会の兵よりも田舎の兵が強かったのはこういうところにあるんじゃないかな? 軍隊の強弱は一人の兵の強弱じゃない。 西洋人は体格はいいが日本軍にやられ放しだった。 最終的に勝てたのは物量と日本の参謀がバカだったからだ。 10人のばらばらの強兵よりも10人の団結した弱兵の方が強い。 他に分家となり関東、東北の地名を持った家も多数あり。 毛利が 山口県に移っても、国人の分家は別れの杯を交わし、土着する者が 多かった。 岡山の宇喜田氏も百済人説あり。

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