松尾 芭蕉 の 職業。 松尾芭蕉は料理人をしていたことがある。実は苦労していた若い頃。

松尾芭蕉とは?俳句や奥の細道などの代表作、旅や服部半蔵との関係について解説!

松尾 芭蕉 の 職業

「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と(作) 誕生 ・ 死没 職業 ジャンル 俳句 代表作 紀行文『』 松尾 芭蕉(まつお ばしょう、21年(元年)() - 7年() )は、前期の。 (現在の)出身。 幼名は金作。 通称は甚七郎、甚四郎。 名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。 としては初め宗房(そうぼう) を、次いで桃青、 芭蕉(はせを)と改めた。 芭蕉はのの言捨てのから始まり、滑稽やを主としていた を、 と呼ばれる芸術性の極めて高い句風 として確立し、後世では 俳聖 として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。 但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ 芭蕉が弟子のを伴い、2年(1689年5月16日)にを立ち、を巡りのまで旅した紀行文『』が特に有名。 (伊賀市) (現在の)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない。 出生地には、赤坂(現在の伊賀市赤坂町)説 と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。 これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 柘植郷(現在の伊賀市柘植)の一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母の間に次男として生まれる。 兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。 松尾家はの末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分はではなくだった。 明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。 そのためであろうか、 異説も多いが2年(1662年)に 若くして伊賀国上野の・の嗣子・主計(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい。 2歳年上の良忠とともににいたに師事しての道に入り 、寛文2年の年末に詠んだ句 春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり) が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳のの日に詠んだという。 寛文4年()には撰『佐夜中山集』に、風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。 寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。 この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。 しかし寛文6年に良忠が歿する。 宗房は遺髪をに納める一団に加わって 菩提を弔い 、仕官を退いた。 後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。 その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。 寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『』を(三重県伊賀市)に奉納した。 これは30番の発句合で、の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でもやなど流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。 また2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。 そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。 江戸日本橋の桃青 [ ] 延宝3年(1675年)初頭(諸説あり )にへ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、のの貸家 、士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。 江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える主・のサロンにも出入りするようになった。 延宝3年5月には江戸へ下ったを迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。 ここで触れた宗因の俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。 延宝5年(1677年)、邸の防火用水にを分水する工事に携わった事が知られる。 卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。 これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。 この期間、桃青は現在のに住み、そこはとして芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。 この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。 ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる。 『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。 宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。 京の信徳が江戸に来た際にらと会し、『桃青三百韻』が刊行された。 この時期には談林派の影響が強く現れていた。 また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。 ただし桃青の評は散逸し伝わっていない。 しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然に居を移す。 この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する生活に飽いたという意見、で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある。 いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けてのように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった。 江戸深川の芭蕉 [ ] 深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。 また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 しかし天和2年(1682年)12月28日、(いわゆるの火事)で庵を焼失し、()の国家老(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した。 翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが 、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。 一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある。 その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる。 その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。 芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる。 深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある。 蕉風の高まりと紀行 [ ] 元年(1684年)8月、芭蕉は『』の旅に出る。 を西へ向かい、伊賀・・・・・を廻った。 再び伊賀に入って越年すると、・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。 これは元々の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。 この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した。 紀行の名は、出発の際に詠まれた 野ざらしを心に風のしむ身哉 に由来する。 これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。 前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。 途中ので、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。 これは「芭蕉七部集」の第一とされる。 この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。 これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。 野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催したの発句会で有名な 月はやし梢は雨を持ちながら 同年10月25日からは、へ向かう『』の旅に出発した。 東海道を下り、・・・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。 貞享4年(1687年)2月にを参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。 その後吉野・大和・と巡り、さらに・・を旅して京都に入った。 京都から江戸への復路は、『』として纏められた。 5月に草鞋を履いた芭蕉は・・名古屋・鳴海を経由し、ので月を展望し、へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った。 おくのほそ道 [ ] 500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子のを伴い芭蕉は『』の旅に出た。 ・・・・・など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行やらのや名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。 夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと): (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):・ 五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県 荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ): この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。 特にで門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。 また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。 芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600(約2,400km)の旅を終えた。 その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し 、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。 12月には京都に入り、年末は の無名庵で過ごした。 『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成 [ ] 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり) に由来する。 7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。 9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。 芭蕉は10月29日に江戸に戻った。 元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。 しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。 同年冬には三井越後屋のである、、らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した。 これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが 、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。 完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。 死去 [ ] 松尾芭蕉像(画) 元禄7年(1694年)5月、芭蕉はの息子であるを連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。 途中の増水でに足止めを食らったが、5月28日には到着した。 その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。 9月に奈良そして生駒を経て大坂へ赴いた。 大坂行きの目的は、門人の之道との二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。 当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。 この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの 10日夜に発熱と頭痛を訴えた。 20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。 10月5日にの花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。 8日、「病中吟」と称して 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る を詠んだ。 この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。 10日にはを書いた。 そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った。 13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)のに運ばれ、翌日には遺言に従っての墓の隣に葬られた。 焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。 蕉門 [ ] 門人にと呼ばれる ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる ・ ・ ・、それ以外の弟子として・ ・などがいる。 この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した。 特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からはが輩出した。 門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。 芭蕉の風 [ ] 貞門・談林風 [ ] 宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。 つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、・・といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。 初入集された『佐夜中山集』の1句 霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』 では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている。 江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる。 天和期の特徴 [ ] 天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。 また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。 これはにおける上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。 天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる。 芭蕉発句 [ ] 貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。 2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。 前者の例は、 木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな) の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている。 「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている。 試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと 、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと とも言う。 この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。 しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。 芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である。 俳評 [ ] 芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった。 芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた。 下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる。 ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる。 「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。 これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ。 これは、の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く。 この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている。 風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。 芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた。 これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である。 これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している。 家系 [ ] 芭蕉の家系は、伊賀のだった流松尾氏とされる。 福地氏は柘植三方 の一氏で、の子孫を称していた。 の時、福地氏当主・は織田方に寝返った。 この功で宗隆は所領経営の継続を許された。 しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。 その他 [ ] 忌日である10月12日(現在はで実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。 は十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。 例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。 「やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の師・の作ではないかと考えられている。 芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。 現在は石碑が久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と側道間のグリーンベルトに建てられている。 またすぐ近くの(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。 隠密説 [ ] 45歳の芭蕉による『』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。 これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 これに18歳の時にの従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。 また、この日程も非常に異様である。 で13泊、では7泊 してに入ったが、出発の前に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した では1句も詠まずに1泊して通過している。 この異様な行程 は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっていたためだとされている。 『』には、仙台藩の軍事要塞といわれる、藩の商業港・を執拗に見物したことが記されている。 (曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている )。 日本以外での芭蕉像など [ ] この節のが望まれています。 の中学2年生のには、2ページにわたって松尾芭蕉のことが書かれている。 Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。 フラナガン名義のの著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。 ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡んでいたりなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。 の著作『モンキーズ・レインコート ロスの探偵エルヴィス・コール』 The Monkey's Raincoat のタイトルは芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」や蕉門の発句・連句集『』に由来する。 芭蕉の句の1つ、"花の雲 鐘は上野か浅草か"の英訳である"The clouds of flowers, Where is the bell from, Ueno or Asakusa? "を来日経験のない英語圏在住者に読ませると人の死を悼む葬式の情景をうたった句と解されたとする記述がある。 著作 [ ]• 『校本芭蕉全集』(全10巻別巻1)• 『松尾芭蕉集』〈70・71〉• 『芭蕉文集』、『芭蕉句集』 〈〉、新装版• 版は 『おくのほそ道 付曾良旅日記』 奥の細道 、『芭蕉俳句集』 『芭蕉俳文集』(上下)、『芭蕉紀行文集』、『芭蕉書簡集』、『芭蕉連句集』、『芭蕉七部集』• 版は 『おくのほそ道』、『芭蕉全句集 現代語訳付』(ほか訳・校注)• 『芭蕉書簡大成』、『芭蕉年譜大成』 今栄蔵編著、• 『全釈芭蕉書簡集』 田中善信、注釈叢書11• 『』 白石悌三・上野洋三校注、〈新70〉• アルゼンチン: Fondo de Cultura Economica. 2015. 銅像・碑 [ ] 芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。 「つげさんぽう」と読む。 日置氏、北村氏、福地氏から成る。 平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。 須賀川で芭蕉と曾良が訪れた相楽等窮は芭蕉にとって恩義ある目上の人であり居住まいを正して芭蕉は訪問している ので、等窮の厚誼を無碍にする事はできなかったのと、旅を続ける為の金を稼ぐために都合三回句会を開いている 句会で指導などを行うと指導料などが包まれるのでそれを当てにしていた。 また雨で阿武隈川が増水した為に出立を一日延ばしているほか、芭蕉が伊賀に居た頃に使えていた蟬吟の祥月命日の物忌みを一日かけて行っているなどしていた為に7泊という長逗留になっているのである• 旅立つ直前に伊賀上野の窪田猿雖に宛てたとされる手紙に、「待ち侘びておりました塩竈の桜や松島の朧月をながめ」とある。 実際には「島々や 千々にくだきて 夏の海」と言う句を詠んでいる。 句を詠まなかったのではなく『奥の細道』へ収載をしなかっただけである。 関係の深い門人や知己の居る所では長逗留し、逆に門人や知己が居ない所では短い逗留になっているだけで異様と言える程の物ではない。 曽良旅日記 正しくは『曽良 奥の細道随行日記』だが、実際は日記でも何でもなく曽良の個人的な記録に過ぎない。 この書名は山本六丁子氏があくまで便宜上附した物に過ぎない。 にはそれに該当する記述は見受けられない。 瑞巌寺では「残らず見物した」とはあるが、瑞巌寺に滞在したのは僅か数時間程度であり、また石巻では日和山からの眺望で石巻中が「残らず見えた」としか書かれていない。 これでは瑞巌寺や石巻港を執拗に見物したとの解釈には無理がある。 また松島及び石巻は共に一泊しかしていない。 調べる機会を伺っていたのであれば、それこそ異様な日程と言わざるを得ない• 「芭蕉七部集」の正式名は「」。 出典 [ ]• 、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、1997年、p. 37参照及び引用• 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(、2003年)、。 、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、1997年、p. 1参照及び引用• 2016年6月12日時点の [ ]よりアーカイブ。 2016年6月12日閲覧。 」と書かれたのが始まり。 その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。 ミュージアム都留 2000 pp. 114-117。 江東おでかけ情報局• 国立国会図書館. 2019年12月9日閲覧。 新人物往来社編 『歴史読本 決定版「忍者」のすべて』 〈歴史ロマンシリーズ〈特集〉〉、。 [ ]• 、カラー版 芭蕉「おくのほそ道」の旅、角川ONEテーマ21 C-73、、2004年、p. 64-p. 65参照• 、カラー版 芭蕉「おくのほそ道」の旅、角川ONEテーマ21 C-73、、2004年、p. 20 p. 65-p. 66参照• 、カラー版 芭蕉「おくのほそ道」の旅、角川ONEテーマ21 C-73、、2004年、p. 65-p. 67参照• 、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、、1997年、p. 2-p. 5参照及び引用• 、見つけぬ花 知られざる芭蕉の佳句、小沢書店、1997年、p. 14参照及び引用• 唐橋吉士、評釋 奥の細道、弘學社、1941年、p. 10参照• 『奥の細道の謎を読む』 南雲堂、、。 [ ]• 山本六丁子 山本安三郎 編、曽良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記、小川書房 発売・誠文堂新光社 、1947年四版、p. 26、p. 27参照• 村松友次 『謎の旅人 曽良』 、、。 [ ]• 2009年1月11日16:00『』にてがから持ち帰った中学2年生の教科書を示して。 大谷泰照監修、堀内克明監修、朝尾幸次郎ほか編 『社会人のための英語百科』 大修館書店、2002年3月、181頁。 参考文献 [ ]• 佐藤勝明 編『松尾芭蕉』〈21世紀日本文学ガイドブック 5 〉、2011年、初版1刷。 『芭蕉』〈集英社新書〉、2001年、第1刷。 高橋庄次『芭蕉庵桃青の生涯』、1993年。 『松尾芭蕉』〈人物叢書〉、1986年、日本歴史学会。 ・田中喜信『永遠の旅人 松尾芭蕉』〈日本の作家 26〉、1991年。 田中喜信『芭蕉 二つの顔』〈 134〉、1998年。 『芭蕉の世界』〈 161〉、1985年。 おくのほそ道文学館. LAP Edc. SOFT 2009年11月18日. 2019年11月12日閲覧。 ミュージアム都留 編『芭蕉・旅・甲州』サンニチ印刷、2000年。 今栄蔵『芭蕉年譜大成』角川書店、1994年。 ・『松尾芭蕉』新潮社〈新潮古典文学アルバム 18〉、1990年。 唐橋吉士『評釋 奥の細道』弘學社 配給・日本出版配給 、1941年、初版• 山本安三郎編『曾良 奥の細道随行日記 附元禄四年日記』小川書房 発売・誠文堂新光社 、1947年、第四版• 『芭蕉の恋句』岩波書店、岩波新書黄版91、1979年、初版第一刷• 山下一海『見付けぬ花 知られざる芭蕉の佳句』小沢書店、1997年、• 『カラー版 芭蕉「おくのほそ道」の旅』角川書店、角川ONEテーマ21 C-73、2004年、 関連項目 [ ].

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松尾芭蕉とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

松尾 芭蕉 の 職業

歴史に残る偉業を成し遂げた人物たちの意外なSelf Turnについて学ぶ「あの人のセルフターン」第1回は、多彩な職歴を持つ松尾芭蕉について和光大学表現学部、総合文化学科教授・深沢眞二(ふかさわ・しんじ)さんにお伺いしました。 みちのくや北陸の情景を五七五の十七文字の俳諧の発句(ほっく)に閉じ込めた紀行文の名作『おくのほそ道』を紡ぎ上げた松尾芭蕉は、農家の生まれでした。 当時の農民に「読み書き」の手ほどきを受ける機会は少なく、彼が農民のままなら芭蕉という江戸俳諧の巨匠は存在しなかったでしょう。 ただ、彼は伊賀藤堂家の若様に仕えたことから俳諧の世界に足を踏み入れ、30代の頃には3つの仕事を掛け持ちしながら感性と技術を磨き、独特の表現世界を築き上げていきます。 料理人のかたわら俳諧に親しむ 松尾芭蕉の生誕地は、現在は三重県である伊賀の国です。 1644年、農家の次男として生まれ、幼名は金作(きんさく)でした。 実のところ、芭蕉は農家の次男であったことが幸運でした。 「松尾家は城下町に家を持つ農家で、伊賀上野城に農作物を納入したのではないでしょうか。 農民であるのに姓を持っているのは、準武士待遇を受ける『無足人』と呼ばれる農民だったからで、戦さの際は刀を持つ兵力として考えられていたようです。 農家の次男であった金作は、いずれ松尾家を出ていかなければならない立場にありました。 農作物を納めていた関係もあったのでしょう、十代の頃に藤堂家の奉公人になります。 「料理関係の仕事をしていた」という記録が伝えられており、料理人として、武家屋敷で包丁を使って食事の用意をしていたのは確かなようです。 藤堂家には金作より2歳年上の跡継ぎ、良忠(よしただ)がいました。 良忠との出会いが俳諧師、芭蕉の出発点となります。 「当時は、大名・旗本の家の当主や若様が俳諧、今の言い方にすれば連句で遊ぶことが流行していました。 良忠も京都の北村季吟(きぎん)という有名な俳人から、手紙のやりとりなどを通して俳諧を学んでいました。 年齢が近い芭蕉は良忠の相手をし、季吟の教えを知るうちに俳諧に親しむようになったと考えられています」 この頃の俳号はまだ芭蕉ではなく『宗房(そうぼう)』というもので、21歳の時に初めて『佐夜中山集(さやのなかやましゅう)』という俳諧集に2句が掲載されました。 江戸に下り、3つの仕事を兼務する 芭蕉が23歳のとき、藤堂家の良忠がこの世を去りました。 年の近い奉公人として仕え、俳諧をともに楽しんだ若様の死は芭蕉の生き方を変えます。 やがて藤堂家の料理人をやめ、新たな一歩を踏み出しました。 「一つの転換期は29歳のときです。 『貝おほひ』という句集を編み、伊賀上野の菅原社に奉納してから江戸をめざします。 当時はまだ無名の俳人でしたが、この本は3年後に江戸で出版されていますので、一定の反響はあったと考えられます」 江戸に下った芭蕉は3つの仕事を掛け持ちしていました。 一つは今で言う事務員です。 芭蕉の江戸での身元引受人と考えられる小沢太郎兵衛(たろべえ)は、京都の俳人、季吟を通じて知り合った人物で、町の役人である「名主(なぬし)」でした。 「読み書きそろばん」ができた芭蕉はそこで、町政に関する書類の作成や整理を担当していたようです。 もう一つは、神田上水の浚渫(しゅんせつ)作業に必要な人出を手配する仕事でした。 「浚渫」とは「水底をさらって土砂などを取り除くこと」で、現代に置き換えれば上水道施設の管理が近いかもしれません。 浚渫作業は江戸の各町が分担しており、芭蕉は人手を集め「何日にどこそこに行って作業せよ」という指示を出す人材派遣業のような業務を担っていました。 3つ目の仕事はもちろん、俳諧にかかわるものです。 「桃青(とうせい)」と名乗り、「点者(てんじゃ)」、すなわち俳諧の先生としての人生を送っていました。 「芭蕉にとっての最大の顧客は、磐城平藩の内藤家でした。 江戸にあった屋敷に出入りしています。 五七五と七七を繰り返す形で共同制作する俳諧の興行にはある程度の人数が必要です。 芭蕉はお殿様が主催する俳諧の会のメンバーだったようです。 一方で、下級武士や町人に対しての指導や添削も行っていました。 当時の俳諧は社交に必要な基礎教養でしたが、芭蕉は仲間同士が集まって俳諧をうまくつけていくにはどうすればいいかといったことを教えていました。 複数の人間で楽しむ趣味のポイントを指導するという意味では、現代における麻雀教室の先生がイメージ的に近いと思います」 40歳を目前に、文芸にとことん打ち込む道へ のちに自ら記しているように「仕官懸命」の思いが強かったようですが、37歳の冬、突然「隠居」の道を選びます。 点者の生活に終止符を打ちました。 実入りの良い仕事を捨てて創作活動に専念する。 そこには並々ならぬ決意があったはずです。 38歳のとき、江戸の繁華街から隅田川をはさんだ不便な深川に転居して、それまでの「桃青」という俳号とともに「芭蕉」という名前も使い始めました。 夏になると芭蕉の木が生い茂る深川の住まいが「芭蕉の庵」と呼ばれるようになったためです。 禅僧への憧れも持っていた俳人は「芭蕉」と名乗り始めるのと時を同じくして、文芸的な遺跡を行脚(あんぎゃ)し、巡礼しながら俳諧を読む、という生き方を選択します。 名作『おくのほそ道』に代表されるような俳諧紀行文は、それ自体で収入を得ようと思ってつくられたわけではありません。 旅の間は各地の俳人に俳諧の指導をして行脚の資金を得ていました。 「芭蕉自身には『おくのほそ道』を出版する気はありませんでした。 実際、生きている間には本として世に出ていません。 紀行文は、創作に生涯をかけることを最終的に選んだ芭蕉の、純粋な文芸的追求といえると思います」 1694年に50年の人生をまっとうした後、芭蕉の評価は確固たるものとなります。 何気ない日常のなかにある心打つ情景をわかりやすい表現で深く描写する、最晩年の「軽み」の境地は、その後の俳諧の表現を一変させました。

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松尾芭蕉の忍者説

松尾 芭蕉 の 職業

歴史に残る偉業を成し遂げた人物たちの意外なSelf Turnについて学ぶ「あの人のセルフターン」第1回は、多彩な職歴を持つ松尾芭蕉について和光大学表現学部、総合文化学科教授・深沢眞二(ふかさわ・しんじ)さんにお伺いしました。 みちのくや北陸の情景を五七五の十七文字の俳諧の発句(ほっく)に閉じ込めた紀行文の名作『おくのほそ道』を紡ぎ上げた松尾芭蕉は、農家の生まれでした。 当時の農民に「読み書き」の手ほどきを受ける機会は少なく、彼が農民のままなら芭蕉という江戸俳諧の巨匠は存在しなかったでしょう。 ただ、彼は伊賀藤堂家の若様に仕えたことから俳諧の世界に足を踏み入れ、30代の頃には3つの仕事を掛け持ちしながら感性と技術を磨き、独特の表現世界を築き上げていきます。 料理人のかたわら俳諧に親しむ 松尾芭蕉の生誕地は、現在は三重県である伊賀の国です。 1644年、農家の次男として生まれ、幼名は金作(きんさく)でした。 実のところ、芭蕉は農家の次男であったことが幸運でした。 「松尾家は城下町に家を持つ農家で、伊賀上野城に農作物を納入したのではないでしょうか。 農民であるのに姓を持っているのは、準武士待遇を受ける『無足人』と呼ばれる農民だったからで、戦さの際は刀を持つ兵力として考えられていたようです。 農家の次男であった金作は、いずれ松尾家を出ていかなければならない立場にありました。 農作物を納めていた関係もあったのでしょう、十代の頃に藤堂家の奉公人になります。 「料理関係の仕事をしていた」という記録が伝えられており、料理人として、武家屋敷で包丁を使って食事の用意をしていたのは確かなようです。 藤堂家には金作より2歳年上の跡継ぎ、良忠(よしただ)がいました。 良忠との出会いが俳諧師、芭蕉の出発点となります。 「当時は、大名・旗本の家の当主や若様が俳諧、今の言い方にすれば連句で遊ぶことが流行していました。 良忠も京都の北村季吟(きぎん)という有名な俳人から、手紙のやりとりなどを通して俳諧を学んでいました。 年齢が近い芭蕉は良忠の相手をし、季吟の教えを知るうちに俳諧に親しむようになったと考えられています」 この頃の俳号はまだ芭蕉ではなく『宗房(そうぼう)』というもので、21歳の時に初めて『佐夜中山集(さやのなかやましゅう)』という俳諧集に2句が掲載されました。 江戸に下り、3つの仕事を兼務する 芭蕉が23歳のとき、藤堂家の良忠がこの世を去りました。 年の近い奉公人として仕え、俳諧をともに楽しんだ若様の死は芭蕉の生き方を変えます。 やがて藤堂家の料理人をやめ、新たな一歩を踏み出しました。 「一つの転換期は29歳のときです。 『貝おほひ』という句集を編み、伊賀上野の菅原社に奉納してから江戸をめざします。 当時はまだ無名の俳人でしたが、この本は3年後に江戸で出版されていますので、一定の反響はあったと考えられます」 江戸に下った芭蕉は3つの仕事を掛け持ちしていました。 一つは今で言う事務員です。 芭蕉の江戸での身元引受人と考えられる小沢太郎兵衛(たろべえ)は、京都の俳人、季吟を通じて知り合った人物で、町の役人である「名主(なぬし)」でした。 「読み書きそろばん」ができた芭蕉はそこで、町政に関する書類の作成や整理を担当していたようです。 もう一つは、神田上水の浚渫(しゅんせつ)作業に必要な人出を手配する仕事でした。 「浚渫」とは「水底をさらって土砂などを取り除くこと」で、現代に置き換えれば上水道施設の管理が近いかもしれません。 浚渫作業は江戸の各町が分担しており、芭蕉は人手を集め「何日にどこそこに行って作業せよ」という指示を出す人材派遣業のような業務を担っていました。 3つ目の仕事はもちろん、俳諧にかかわるものです。 「桃青(とうせい)」と名乗り、「点者(てんじゃ)」、すなわち俳諧の先生としての人生を送っていました。 「芭蕉にとっての最大の顧客は、磐城平藩の内藤家でした。 江戸にあった屋敷に出入りしています。 五七五と七七を繰り返す形で共同制作する俳諧の興行にはある程度の人数が必要です。 芭蕉はお殿様が主催する俳諧の会のメンバーだったようです。 一方で、下級武士や町人に対しての指導や添削も行っていました。 当時の俳諧は社交に必要な基礎教養でしたが、芭蕉は仲間同士が集まって俳諧をうまくつけていくにはどうすればいいかといったことを教えていました。 複数の人間で楽しむ趣味のポイントを指導するという意味では、現代における麻雀教室の先生がイメージ的に近いと思います」 40歳を目前に、文芸にとことん打ち込む道へ のちに自ら記しているように「仕官懸命」の思いが強かったようですが、37歳の冬、突然「隠居」の道を選びます。 点者の生活に終止符を打ちました。 実入りの良い仕事を捨てて創作活動に専念する。 そこには並々ならぬ決意があったはずです。 38歳のとき、江戸の繁華街から隅田川をはさんだ不便な深川に転居して、それまでの「桃青」という俳号とともに「芭蕉」という名前も使い始めました。 夏になると芭蕉の木が生い茂る深川の住まいが「芭蕉の庵」と呼ばれるようになったためです。 禅僧への憧れも持っていた俳人は「芭蕉」と名乗り始めるのと時を同じくして、文芸的な遺跡を行脚(あんぎゃ)し、巡礼しながら俳諧を読む、という生き方を選択します。 名作『おくのほそ道』に代表されるような俳諧紀行文は、それ自体で収入を得ようと思ってつくられたわけではありません。 旅の間は各地の俳人に俳諧の指導をして行脚の資金を得ていました。 「芭蕉自身には『おくのほそ道』を出版する気はありませんでした。 実際、生きている間には本として世に出ていません。 紀行文は、創作に生涯をかけることを最終的に選んだ芭蕉の、純粋な文芸的追求といえると思います」 1694年に50年の人生をまっとうした後、芭蕉の評価は確固たるものとなります。 何気ない日常のなかにある心打つ情景をわかりやすい表現で深く描写する、最晩年の「軽み」の境地は、その後の俳諧の表現を一変させました。

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