アレキサンダー 大王。 アレクサンドロス[大王](アレクサンドロス)とは

アレクサンドロス[大王](アレクサンドロス)とは

アレキサンダー 大王

誕生から即位 アレキサンダーの家系はギリシャ世界においても随一であり、少年時代の彼は同世代の学友と共に から、基礎的な教養を学んだ。 また、ギリシャ世界の偉大さとギリシャ人としての誇りも教えられた。 この時代、ギリシャは国家でこそなかったが アテナイ、 スパルタ、 テーバイなどのコミュニティーの集団がギリシャ世界だと考えられていたからである。 相手はマケドニアに対する脅威を感じた・連合軍であったがこれに勝利する。 この戦いの勝利に大きく貢献したアレキサンダーはその才を認められ、父である はやがてギリシャ全土を支配することとなった。 しかし、ピリッポス2世が側近により暗殺されてしまうと、その混乱に乗じてテーバイが反乱を起こしてしまう。 アレキサンダーは20歳で王位を継ぐと、すぐさまそれを制圧し、ギリシャ全体を完全な形で掌握することに成功した。 これが アレキサンダー王の誕生である。 遠征の始まり 紀元前334年、ギリシャを統一したアレキサンダーは、父の遺志を継いでペルシアへの遠征を行う。 当時のは、現在のイランを中心に、西はトルコやエジプト、東はパキスタン周辺まで及ぶ最強国家であった。 このペルシアを打ち破らなければ、世界を手中に収めることは出来ない。 この時代の世界観で考えるとペルシャの先には「 最果ての海」があると信じられていた。 地中海を中心とした南ヨーロッパ、北アフリカ、中央アジアまでが 世界のすべてだったのである。 マケドニア軍38,000は、ペルシア軍40,00とアナトリア地方のグラニコス川で対峙する。 一際派手な鎧で人目を引くアレキサンダーは、自ら軍の先頭を駆って突進すると敵将を投げ槍で仕留めたという。 あまりに鮮烈な勝利にマケドニア軍は士気を高め、ペルシア軍は恐怖を覚えた。 その後もマケドニア軍は勝利を重ねながら東進を続けてゆく。 この頃にはマケドニアの将兵もアレキサンダーのカリスマ性に魅了されていた。 彼は、我が身をもって行動を示す人物だったからだ。 そして、その勢いのまま イッソス(現在のトルコ領内)でペルシア国皇帝 が率いる12万のペルシア軍と衝突する。 マケドニア軍は4万足らずとも言われるが、その劣勢を覆してペルシア軍に5万の戦死者を出して勝利した。 この戦いの後、アレキサンダーはペルシャ全軍を完全に制圧するまでの遠征に乗り出すことになる。 エジプト遠征とペルシア王朝の滅亡 アレキサンダーは、反ペルシアの都市が比較的多かったシリアを経て、さらに南下するとエジプトを占領した。 ペルシア領になってまだ日の浅いエジプト占領は容易であり、紀元前332年にはエジプトの王として認められる。 その後、ナイル川の河口西端に都市を建設したが、これが現在のである。 余談ではあるがアレキサンダーの死後、さらに発展したアレクサンドリアには世界の七不思議のひとつに数えられる「 」や、70万冊の蔵書を誇りながらも突如消滅した「 」などが建設された。 これにより、地中海貿易の中心として大いに栄えたという。 大灯台は二度の地震により崩壊したが、近年の調査によりその遺構が海中で発見されている。 勝利の鍵はアレキサンダーの天才的な指揮と、それを実現させたマケドニア軍の統制のとれた戦術だったといわれる。 ペルシア王朝の中枢であるイラン・イラク地域に進軍したアレキサンダーは、最初こそマケドニア軍に略奪などを許していたが、ペルシア文明の高さ、そしてそれを統治してきたダレイオス3世に尊敬の念を抱くようになる。 その経験が後の大王としての政策に生きるのだが、ダレイオス3世は配下の裏切りにより暗殺されてしまった。 これにより、ペルシア帝国はほぼ滅亡したといえる。 現地のによる激しい抵抗は二年にも渡ったが、マケドニア軍は遊牧民の騎兵にも勝利を収めた。 しかし、故郷を旅立ってから約7年もの遠征を続けた将兵の士気はこのころから低下していく。 続いてインドへの遠征を開始したアレキサンダーだったが、初戦で両軍合わせて約2万もの戦死者を生む激しい戦いに勝利する。 それでもインドへの侵攻を進めようとするアレキサンダーにある知らせがもたらされた。 その先に待ち構えるのは20万を超える大軍と6千頭もの象を用意したインド軍であると。 さすがのアレキサンダーも自軍の損耗や兵の士気を考えて引き返す決断をする。 ここに彼の大遠征は幕を閉じることとなった。 マケドニアへの帰還途中にはマケドニアの兵士とペルシア人女性との合同結婚式が行われた。 (現在のイラク)においては帝国を文明ごとに大きく3地域に再編することなどを宣言、大帝国内では人と文化の移動が起こり、ギリシャ文化とオリエント文化が融合しとして花開いたといわれる。 その後のアレキサンダーはアラビア遠征を計画していたが、突如倒れると10日間の高熱にうなされて死去する。 マラリアだったという説が有力だが、これにより、34歳の若き大王はその生涯を終えた。 紀元前323年6月10日のことである。 遠征・征服した領域は東西4500kmに及ぶ しかし、彼は最後まで見続けた夢があった。 「 」である。 古代ギリシャの神話においてウラヌスとガイアの息子でティターン一族の長兄にあたるオーケアノスは「海」を意味していた。 そのため、古代ギリシャの世界観では、世界は円盤状になっていて、エウローパ(ヨーロッパ)、アシアー(西アジア)、リュビアー(北アフリカ)の三大陸が中心に存在し、その果てにはオーケアノス(海)がぐるりと取り囲んでいたとされる。 英語で大洋を意味する「 ocean (オーシャン)」の語源である。 アレキサンダーはそのオーケアノス、「 最果ての海」を見ることを夢に遠征を続けたともいわれている。 まとめ アレキサンダーほどの人物は古代にもかかわらず、その逸話は多い。 軍事的天才というだけではなく、それだけ人を魅了する力があったのだろう。 今回はその生涯を追うだけになってしまったが、いずれ、アレキサンダー個人の話を調べたいと思う。 最後に長期遠征に耐え切れず、不平を漏らした兵士たちへの叱咤の言葉を記しておこう。 彼がどれほどの思いで遠征に望んだのかが垣間見える。 『私は兵士のために大きな苦労を忍んできた。 お前たちの誰が私のためにそれほど苦しんだというのか。 傷跡のある者は見せてみよ。 その者は私の傷跡を見よ。 お前たちの栄光と富のため、私は傷を受けたのだ。 そしていま、私はもう戦いにかなわぬ者たちを、故国の人々がうらやむほどの身分にして帰郷させようとしているのだ。 それなのにお前たちは皆を背き去ろうとしている。 行くなら行ってしまえ』.

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アレキサンダー大王は古代ギリシャの英雄!一代で大帝国マケドニアを築いた強さの理由とは?

アレキサンダー 大王

アレキサンダー大王は古代ギリシャで活躍した英雄!十数年で大帝国を築き上げた! 紀元前356年〜323年に活躍した古代ギリシャの英雄・アレキサンダー大王は、ギリシャの強国であったマケドニアの王、フィリッポス2世の子供としてその生を受けました。 フィリッポス2世はペルシャ遠征を目論むなど野心家でしたが、暗殺によりその夢は道半ばで閉ざされてしまいます。 アレキサンダー大王は亡き父に代わり、20歳で王位を継承しました。 父の意志を継いだアレキサンダー大王は、ペルシャに侵攻を開始。 天才的な軍略により、次々と都市を陥落させていいきます。 そして見事ペルシャ全土を手中に収め、さらにエジプトやインドまでも支配下におき、史上最大規模のマケドニア王国を築き上げます。 アレキサンダー大王がこの大侵略に要した期間は、わずか十数年。 いかに優れた軍略家であったかが分かりますね。 また、ギリシャとインド、エジプトをまたいだ大帝国をアレキサンダー大王が築き上げたことにより諸国の文化が混ざり合い、「ヘレニズム」という文化が生まれました。 この文化によって生まれた彫刻「ミロのヴィーナス」「ラオコーン」「サモトラケのニケ」などは、現代に残る有名な作品です。 加えて、エウクレイデス、アルキメデスといった学者も輩出し、アレキサンダー大王は文化面でも多大な影響を後世に与えたのです。 : マケドニア軍の強さを生んだ戦術とは? アレキサンダー大王は、秀でた才覚によりマケドニア軍を世界最強の軍隊と言われるほどの武力を誇るまでに育て上げ、偉大な功績を成し遂げました。 アレキサンダー大王が活躍した時代に主な戦術として用いられていたのは、大きな盾と槍を持って進軍する「ファランクス」と呼ばれる密集隊形でした。 アレキサンダー大王は盾の使用をやめ、代わりに従来よりも更に長い槍を兵士に持たせることで、攻撃力と機動力を増強しました。 戦況に合わせて戦術を組み替え、重傷を負っても常に軍の先頭に立って果敢に戦う王の姿は、兵士の士気を高めました。 また、飢えと渇きに多くの兵士が倒れる砂漠で、部下が王にと見つけてきた1杯の水を口にせず、部下と苦しみを分かち合ったというエピソードもあります。 統率力に優れたアレキサンダー大王は、兵士達から絶大な信頼を集めました。 アレキサンダー大王はアリストテレスの弟子だった? 紀元前323年、東方遠征を終えたアレキサンダー大王は祝宴の最中に突如倒れ、10日間高熱にうなされた末にこの世を去ったとされています。 32歳というあまりに早すぎる死でした。 アレキサンダー大王がなぜ若くして命を落としたのか、今でもその死の真相は謎に包まれたままです。 これに関して、いくつかの説が語られています。 1つは、アレキサンダー大王は倒れる前に蚊に刺され、これが原因でマラリアを発症し、死亡したとされる説です。 刺されたのは蚊ではなく、蜂だという説もあります。 また、何日も高熱にうなされたという史実から、西ナイル熱によって病死したとも言われています。 2つめは、暗殺説です。 東方遠征中、酒に毒を盛られて暗殺されかけた、側近に毒を盛られた、インドから送られてきた絶世の美女に毒を盛られたなど、暗殺説については諸説あり、病死説と並ぶ有力な説とされています。 しかし、真相を明らかにする決定的な史料は発見されておらず、アレキサンダー大王の死の真相が解明されるまでには、まだ時間がかかりそうです。 敵国への夜襲を部下に進言されても「私は勝利を盗まない」と翌朝まで攻め込まず、戦いで捕えた敵国の王の母と王妃に敬意をもって接するなど、人間的な度量がうかがえる逸話が残るアレキサンダー大王は、真の英雄と呼べる偉大な王だったといえるでしょう。 <こちらもおすすめ!>.

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アレキサンダー大王にまつわる8つの逸話!彼の生涯を知れる本4冊も紹介

アレキサンダー 大王

アレキサンダー大王の生い立ち 父王フィリッポス2世 アレキサンダー大王はマケドニア王である フィリッポス2世の息子として誕生します 紀元前356年7月20日。 父王であるフィリッポス2世はギリシャの小国に過ぎなかったマケドニアを一代のうちにギリシャ有数の強国に成長させた名君でした。 フィリッポス2世は古代ギリシャの伝統的な戦術の一つであった 「ファランクス」を改良させます。 槍を持った歩兵が密集することにより威力を発揮していたファランクスに、フィリッポス2世は槍を長くする改良を施し、なおかつ騎兵による突撃を組み合わせたのです。 ファランクスは長い槍を持った兵士が密集しているため、前方には無類の強さを発揮します。 ハリネズミの針のように無数の長い槍が前方に突き出た形状です。 しかし、その反面で横からの攻撃には脆さがあったのです。 フィリッポス2世は槍兵たちで敵の群れを足止めしている間に、素早く動ける騎兵たちを敵の弱点である側面に向かわせました 子の時代の敵もファランクスを使います。 この「マケドニア式ファランクス」は古代世界で有能な戦果を上げることになり、フィリッポス2世のマケドニアを躍進させる力になったのです。 アレキサンダー大王がマケドニア王になる 有能なフィリッポス2世は息子であるアレクサンダー大王と共に、ギリシャの各国と戦い、勝利を重ねます。 やがてギリシャ全土を掌握したフィリッポス2世でしたが、部下の裏切りにより暗殺されてしまいます。 その結果、アレキサンダー大王は20才の若さでマケドニア王となったのです。 アレキサンダー大王は王位を狙う政敵を暗殺し、自身の権力基盤を固めていきます。 父王フィリッポス2世の死後、ギリシャは混乱していました。 フィリッポス2世が死んだ隙に反乱を企てるもあります。 若いアレキサンダー大王は軽んじられていたのですが、その評価を実力で覆すことになります。 それらの反乱を鎮圧し、父王と同じくギリシャ全土を掌握したのです。 アレキサンダー大王の東方遠征:ペルシャとの戦いの始まり アレキサンダー大王と父王フィリッポス2世には大きな敵がいました。 それは東方の大国であるペルシャ 今のイラン周辺 です。 ギリシャ全土を掌握したアレキサンダー大王は、ペルシャを征服するためにマケドニア軍と共に東を目指します。 このときアレキサンダー大王は自分の財産を全て兵士たちに渡しました。 マケドニア式ファランクスを操るマケドニア軍の強さは圧倒的でしたが、物資や資金の面では不安があったのです。 無一文に近い状態になってしまったアレキサンダー大王でしたが、戦をするための兵力を手にしていました。 そして彼は武術にも優れ、前線で仲間を率いて戦う猛者だったのです。 「グラニコス川の戦い」で、アレキサンダー大王はペルシャ軍の精鋭部隊と衝突します。 両軍が横列で対面するのが古代の戦争のセオリーです。 この戦いではアレキサンダー大王を率いる右翼の騎兵が突撃し、川を挟んで待ち構えていた敵中央に襲いかかり、それを圧倒します。 さらにその勢いのままアレキサンダー大王自身が、敵の将軍の一人に槍を投げつけて仕留めたのです。 アレキサンダー大王率いるマケドニア騎兵の強さは圧倒的で、防御に優れた位置にいたはずのペルシャ軍精鋭部隊をまたたく間に倒しています。 この騎兵を操る戦術は、アレキサンダー大王の最大の武器として彼を一生支えることになります。 ちなみにアレキサンダー大王はこの戦いで、ペルシャ軍の精鋭の大半を倒していたのです。 アレキサンダー大王がダレイオス3世に勝利する ダレイオス3世(出典:wikipedia) 精鋭を失ったペルシャ軍に対して、アレキサンダー大王とマケドニア軍は各地で勝利を重ねていきます。 「イッソスの戦い」ではペルシャの王ダレイオス3世と初めて直接対決を行いました。 5万~10万のペルシャ軍に対して、アレキサンダー大王が率いるのは4万の兵士たちです。 数で劣るアレキサンダー大王でしたが、この戦いも圧勝することになります。 自らが率いる右翼の騎兵と共に進撃し、すみやかに敵陣を突破、ダレイオス3世を目掛けて襲いかかったのです。 追い詰められたダレイオス3世は家族を置き去りにして撤退、指揮官が逃亡したペルシャ軍は崩壊します。 この戦いでアレキサンダー大王の名は周辺諸国に広がることになり、ペルシャ軍が持っていた財宝を奪い取ったことで資金難が解決したのです。 その後、アレキサンダー大王は南下し、エジプトをペルシャから解放し、支配するようになります。 アレキサンダー大王とダレイオス3世の決着:ガウガメラの戦い ダレイオス3世はアレキサンダー大王を倒すため、ペルシャ帝国各地から戦力をかき集め、数的有利が活きる平野での決戦を仕掛けます。 ペルシャ軍は精鋭を欠いてはいるものの総勢で20万を超える大軍です 25万人とも。 なおアレキサンダー大王の軍は4万7000しかいませんでした。 圧倒的に不利な状態であり、自軍の将からアレキサンダー大王は夜襲を提案されますが、「私は勝利を盗まない」と語り、兵士たちをしっかりと休ませたと伝わります。 敗北必至に思えた戦力差でしたが、アレキサンダー大王は神がかった采配で軍を操ります。 まずは自軍の両翼を下げることで、敵に「包囲されやすくした」のです。 包囲された軍隊はそのまま負けてしまうことが多いのですが、アレキサンダー大王には奇策がありました。 右翼を指揮するアレキサンダー大王は、包囲してきた敵軍を圧倒しながら「右に向かって戦場の中心から離れて行きます」。 左翼はその場に残り、「敵にあえて囲まれて」奮戦し続けます。 左右に分かれるように広がってしまったアレキサンダー大王軍を見て、ダレイオス3世はアレキサンダー大王を追い詰めるために、「騎兵を右にいるアレキサンダー大王に向けて放ちました」。 しかし、アレキサンダー大王はそれを狙っていたのです。 ガウガメラの戦いにおける用兵 それまでは右に向けて戦場の中心から離れるように動いていたアレキサンダー大王と騎兵たちでしたが、突如として進軍する方向を反転して、ダレイオス3世がいる敵の「中央」に目掛けて突撃します。 アレキサンダー大王は「自軍の左翼を囮にして敵を集めつつ」、自分も右に動いて「敵を右側にも誘っていた」のです。 その結果、ペルシャ軍は誘われるがまま左右に幅広く展開しすぎてしまい、「中央の守りが薄くなっていました」。 さらにアレキサンダー大王を追い詰めるため、ダレイオス3世は騎兵まで右に向けて放っているせいで、中央の守りはさらに弱っています。 だからこそアレキサンダー大王率いる騎兵たちは、中央に陣取っているダレイオス3世を狙えたわけです。 なお右に向けて放たれたペルシャ軍の騎兵たちは、アレキサンダー大王の騎兵に追いつこうとしましたが、アレキサンダー大王の背後には、速く走れる軽装の歩兵たちがついてきていました。 軽装歩兵たちが敵の騎兵と戦い、大王たちの背後を守り、時間を稼ぎます。 そのため、アレキサンダー大王と精鋭の騎兵たちはダレイオス3世を狙って素早く敵軍の中央に突入し、そこで暴れ回れることができたわけです。 危機を感じたダレイオス3世は、そのまま戦場から逃亡します。 アレキサンダー大王は囮にしていた左翼が崩壊寸前になっていたため、ダレイオス3世を追わず、左翼の救援に向かったのです。 王が逃げたことによりペルシャ軍は崩壊し、アレキサンダー大王はこの戦いでも勝利し、ペルシャの首都を攻撃しました。 アレキサンダー大王のインド遠征 (出典:Pinterest) 強敵ペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王は、各地を部下に任せたあとでインドにまで遠征します。 「ヒュダスペス湖畔の戦い」では、インドのパンジャーブ地帯の王であるポロスの軍と衝突します。 ポロス軍は戦象200を軍の中央に配置し、左と右の端に騎兵を配置しています。 アレキサンダー大王は戦象のいる中央に無理な攻撃は加えることなく、いつものように右翼の騎兵部隊を率いて攻撃を開始します。 それと同時にアレキサンダー大王軍本隊の後ろでは、騎兵の別働隊が隠れながら左に向かって進んでいたのです。 アレキサンダー大王率いる精鋭の騎兵たちが、ポロス軍の右の騎兵を追い詰めます。 ポロス軍は左にいた騎兵たちを右の騎兵を救助させるため移動させます。 ポロス軍はアレキサンダー大王軍の騎兵の別働隊に気づいていなかったのです。 別働隊はそのまま空白地帯となった敵の左側を通過して敵の背後を取り、右側の戦場に集まっていたポロス軍の騎兵を包囲して殲滅、この戦いは アレキサンダー大王の勝利に終わりました。 アレキサンダー大王の帰還と急死 インド北部で戦いを続けていたアレキサンダー大王でしたが、インド中央へと進もうとしていたとき、部下である兵士たちが故郷に戻りたい、これ以上は進軍しないでくれと言い出します。 アレキサンダー大王はもっと進軍し領土を広げたかったのですが、兵士たちがついてきてくれないのであれば、どうにもなりません。 部下を引き連れて本拠地であるバビロンに帰還したアレキサンダー大王でしたが、そこで 急死することになります。 病死した、蜂に刺されて死んだ、毒殺されたなどの説があります。 10日間の苦しみの果てに死んだとされ、死の直前に「最強の者が帝国を継承せよ」と言い残し死亡しました。 その後、アレキサンダー大王の一族はすぐに滅ぼされてしまい、アレキサンダー大王が32年の生涯で作り上げた広大な帝国は、彼の部下たちが奪い合うように継承していきます。 元々はアレキサンダー大王軍の兵士たちであったため、彼らは皆マケドニア式ファランクスの使い手です。 お互いの弱点を突こうとマケドニア式ファランクスの「改良」を試みましたが、その完成度は低くなっていき、やがてはローマ軍に負けてしまいます。 アレキサンダー大王の人物像や逸話 圧倒的な軍人としての才能 一生涯、軍隊を率いた戦争に敗北したことがありません。 本人も騎兵の先頭に立ち、仲間を率いて敵軍に突撃するような 剛胆な性格をしています。 馬術と武術に優れていた戦士でもありました。 父王フィリッポスが創った最強の軍隊を、神がかった戦術とカリスマ性で率いることで生涯負け知らずの強さを持っています。 マケドニア式ファランクスの使い手である槍を持った歩兵たちだけでなく、機動力のある騎兵や軽装歩兵も連動させて使いこなしています。 敵の弱点を突く才能と弱点を作り出す才能に長けており、攻撃と同時に自軍の弱点を補う策を使える可能な天才です。 軍隊の移動の速さを使いこなすことで敵の数的有利を無効化するという、現代の戦術の手本になるような采配をしています。 歴史上、 最強の将軍の一人として評価するほかありません。 将兵たちからの信頼も厚く、重傷を負っても最前線で戦い続けています。 荷馬車に乗り込み肉体の鍛錬をつづけるなど、兵士との距離が近く、尊敬を集めていた有能な戦士でもあったのです。 身分の高い敵や女性には尊敬を示す ペルシャの王であるダレイオス3世の家族を捕虜にしたさいは、丁重に扱っています。 ダレイオス3世の母親が、アレキサンダー大王と部下を間違えてしまったときも、笑って許しています。 またダレイオス3世が部下に裏切られて殺されたときは、その仇討ちとして裏切り者を糾弾しています。 インドの戦いで最後まで奮戦した敵の王であるポロスのことを高く評価して、彼には今までの2倍の領地を与えて、自軍に参加させています。 ポロスはインドの戦いでは、アレキサンダー大王軍に帯同して仲間として戦ったのです。 明確な政敵には容赦がない 政敵となりそうな人物に対しては暗殺を含め、容赦なく殺しています。 不正を働いていた部下や、裏切りの疑惑をもった有能な将軍に対しても、容赦なく処刑を行っています。 父親も暗殺されているためか、裏切りの兆しを持つ政敵に対しては容赦なく排除していたわけです。 自称 神の子 アレキサンダー大王は ギリシャ神話のヘラクレスの子孫であることを自称していました。 神の子として扱われることを好んでいます。 エジプトでは王であるファラオは神の子孫とされていましたが、アレキサンダーもまたファラオの位を得ています。 アレキサンダー大王の家庭教師はアリストテレス アリストテレスの授業を受けるアレキサンダー大王(出典:wikimedia) 教師の一人は哲学者として有名な アリストテレスです。 16才になるまでアレキサンダー大王はアリストテレスから教育を受けていました。 東征に出たアレクサンダー大王にアリストテレスは「王道論」、「植民論」などの著作を送り、大王もまた師であるアリストテレスに各国の植物や動物を送ったとされます。 自然科学の研究者でもあるアリストテレスは、その動植物を観察、研究に使いました。 この交流は大王が死ぬまでつづいています。 酒に酔って友人を殺したことがある 「グラニコス川の戦い」で敵に突撃したさい、目立つ鎧を着ていたため敵に集中的に狙われました。 クレイトスはそのときにアレキサンダー大王の窮地を救った命の恩人であり友人でしたが、酒宴でアレキサンダー大王への不満を口にしたときに、大王の手で殺されます。 酔いから覚めてクレイトスを殺してしまったことを理解したアレキサンダー大王は、三日三晩、自室で泣きつづけたされます。 なおクレイトスの不満の理由は、ペルシャの文化を積極的に取り入れていることへの怒りです。 ギリシャ人らしくない文化を重用していることに、クレイトスは腹を立てていました。 アレキサンドリアを各地に建設する アレキサンドリアという名前の都市を各地に建設してます。 アレキサンダー大王の名前から取った都市名です。 建設されたアレキサンドリアの数については研究者の見解が分かれています。 記録によれば70以上はあったのではないかと考えられており、最も有名なのはエジプトのアレキサンドリアです。 愛馬ブケパロス 王子時代に手に入れた気性の荒い黒い馬が ブケパロスです。 誰も乗りこなすことの出来ない馬でしたが、アレキサンダー大王だけが乗りこなせました。 ブケパロスが自分の影に怯えて暴れていることに気づいたアレキサンダー大王は、ブケパロスを太陽が昇っている方向に顔を向けさせることで落ち着かせました。 ブケパロスは長年の愛馬であり、インドの戦場でブケパロスが死んださいには、この馬を記念して「アレクサンドリア・ブケパロス」を建設しています。 額に白い星があった、あるいは角が生えていた、人食い馬であるなど、ブケパロスにまつわる伝説も多く伝わっています。 アレキサンダー大王の東征の結果ヘレニズム文化が誕生 ギリシャやローマやエジプトなどの地中海文化圏の国々と、ペルシャなどの中央アジアや果てはインドまで、遠征を行った土地でさまざまな文化の交流が起きたとされます。 アレキサンダー大王は植民や異文化間の国際結婚も推奨した人物でしたが、ギリシャ愛が強い自軍の兵士たちには、それほど真剣に受け止められてはいなかった側面もあります。 とはいえ70以上の植民都市を建設したことにより、文化の交流を促進したと考えられています。 アレキサンダー大王自身もギリシャ人でありながら、ペルシャ文化を好んでいたのです。 【関連記事】 アレキサンダー大王の最期 アレキサンダー大王の死因と墓 蜂毒で死んだ、病気で死んだ、毒殺による暗殺説などがあります。 アレキサンダー大王の墓も遺体も発見されていなため、文献から推測することしかできないため真実は未だに謎です。 マラリアにかかったのではないか、あるいは てんかん発作で酒宴のさなかにいきなり倒れたという説もあり、 落馬したせいで死んだというものもあります。 他にも薬草の分量を間違えてしまった 医療ミス説や、 ギランバレー症候群により体が麻痺していて、死亡判断はミスで死んだと思われた後もしばらく生きていたという説もあります。 死後400年後に書かれた文献を根拠としている説もあるため、大王の死体が発見されるまで論争に決着がつくことはなさそうです。 死体の行方 アレキサンダー大王の遺体はプトレマイオス朝エジプトを開いた、エジプト王 プトレマイオス1世により強奪されています。 プトレマイオス1世は葬儀を盛大に執り行うことで、自分がアレキサンダー大王の正統な後継者であると主張しようとしたのです。 その後、アレキサンダー大王の死体は行方不明となり、彼の墓も現在のところ未発見となっています。 ちなみにプトレマイオス1世は有名なエジプト女王、クレオパトラ7世の先祖です。 まとめ• アレキサンダー大王は軍事的な天才• アレキサンダー大王は東征を行いペルシャを滅ぼす• アレキサンダー大王は生涯無敗• アレキサンダー大王は急死したが死因は諸説あり墓の場所は不明• アレキサンダー大王の父王も有能だった• アレキサンダー大王は都市建設も盛んに行った• アレキサンダー大王はペルシャ文化などにかぶれていた• アレキサンダー大王はアリストテレスの教え子• アレキサンダー大王の愛馬ブケパロスにも伝説が多い• アレキサンダー大王は文化の交流を起こした 古代史における最大級の英雄の一人であるアレキサンダー大王には、多くの伝説があります。 最大の特徴は軍事的な天才ぶりです。 十年足らずのうちに広大な帝国を築き上げた力は、父親から受け継いだ最強の軍隊と天才的な戦術家としての能力です。 歴史上でも稀有な軍事的な天才が、もっと長生きしていればどんなことを達成いたのかを考えるとワクワクしてきます。

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